重力に依存し、プレートの速度に依存し、気象条件に依存していたにも関わらず、自らが自律し得るという根拠無き傲慢こそが原発事故を引き起こした。同様の傲慢は、様々な場所で確認することができる。



 国立新美術館でワシントン・ナショナル・ギャラリー展。最初の部屋と最後の部屋を見るだけで十分だ。それくらいマネとセザンヌは素晴らしかった。セザンヌ初期の、新聞を読む父親の肖像の巨大さに驚かされた。日常的な身振りの単身の肖像という、ささやかなテーマにはそぐわないような、モニュメンタルな大きさの堂々たる作品である。


 松濤美術館岡本信治郎展は期待外れだった。多くの作品が、ポスターに描かれるべきデザインをキャンバスに描いただけに見えた。


 ギャラリエ アンドウで金子透展。


 工房親で「絵画を考える-支持体-」展。面白い作品が多かった。秋元将人の作品は、いつも手が込んでいるが、今回展示されていたのは、「チョコボールの箱に色玉」というような設定が目につくタイプのものだった。私は、分かりやすい設定がなされていないタイプの作品の方が良いと思う。コンセプチュアルと造形性の共存が作家の目指すところなのかもしれないが、設定がなされた作品においては、その設定自体に引っ張られすぎているように見える。


 Gallery Face to Faceで若松武史展。美術に男性原理と女性原理が存在するとすれば、若松の作品は男性が自己を開く形で獲得された女性原理によって作られている。描く欲望が直截に表れている。


 switch pointで郷正助「あの星にいきたい」展。カラフルなペインティングや、木切れにペイントしたものを床に散らばしたり、アバウトに折られた折り紙がカウンターに並べられていたりと、視線を様々な方向へと誘導する楽しい展示である。ただ、ペインティングに関しては、やりたいことが多すぎるせいか、表現が上滑りしており、絵画性を確認することができない。ペインティングを、床に散らばる木切れや折り紙と同じ水準で見ろということであれば話は別だが。じっくりと制作されたキャンバスを見てみたい。


 棚ガレリでの大山エンリコイサム展は素晴らしかった。線の運動に、描かれる過程において露になる関数としての身体の微細な動きが事故として作用し、画面の中にいくつかの結節点を生み、そして線の運動が再びそれらを相対化してゆく。出自がグラフィティの作家だが、制作のクリティカルポイントはペインティングと共有できる。