ショーシャンクの空に

人が内省を強いられる状況に置かれた時、精神は肉体を牢獄として認識することがある。刑務所や捕虜が作品のテーマとなる時、常にそうした精神の働きが暗に伏線として働いている。ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』においても、激しい労働の末の密やかな安息が描かれるが、それは解放への願望のネガとして、決して果たされないであろう消去された可能性の代補という形で表象される。

映画『ショーシャンクの空に』の中でも、囚人達はきっと叶わないであろうという予期の元で仮釈放のための形式的面接を何度も受けに行く。そこでの囚人達の精神の形態は、不可能性を先取りする*1という形に歪められている。牢獄とはそのような起こり得ない可能性に絶望し続けることを不断に更新し続けて行くための装置として機能しているのだ。

しかし、延々と続くかに見えた精神のモノローグは、不意に仮釈放決定という現実に対応することが出来ずに、50年を刑務所の中で過し続けた老人が自ら自殺を選択するというシーンをこの作品は描いている。映画の最後は主人公の脱獄と、相棒の仮釈放からの逃亡というハッピーエンドで終わるのだが、そのためには夢(モノローグ)と現実(ダイアローグ)との相克を克服するために、絶対的な「掟」*2として眼前に控えていたように見える「法」自体が破られねばならなかったのである。

メーデー救援会


『ショーシャンクの空に』

『イワン・デニーソヴィチの一日』

*1:ドストエフスキーの小説の中で、登場人物同士のダイアローグが常に相手の返答を先取りする形で、モノローグが極限まで引き延ばされるようにして表現されることと類似している。

*2:カフカ「掟の門前」参照。