出光美術館「時代を映す仮名のかたち-国宝手鑑『見努世友』と古筆の名品」展

阿曾美術 「池田巖」展


三松幸雄×高橋悠治「道という――音楽、そして」(銀座哲学レクチャー)


「道亙亡名」(道は 亙〔つね〕に 名 亡し) 郭店楚簡『老子

道があればそれはすでに動いている。『偶然性唯物論』における西部劇モデル。
連続する時間のなかでの身体性。
対して、循環する時間は変化し、いずれは崩壊し、そして再び始まる。
そのための方法。


高橋氏のお話は、理論だけを聞いていると、極めて抽象的に感じられるのだが、その背後には(例えばある民族の)具体的な音楽の形が存在し、そこから帰納された上で精密に法則が導き出されていることに驚嘆する。

その手つきは科学的であり、同時に知恵に溢れている。

多くの発見に満ち、触発される時間だった。

 世界初の紙幣は中国で生まれた。当初は兌換紙幣(銀本位制)だったが、経済政策上次第に紙幣が乱発されるようになった結果、不換紙幣となり、通貨はインフレによる試練を受けた。第二次大戦後のブレトンウッズ体制下においても、金とドルとの交換を保証した米国から次第に金が流出し、金ドル本位制の維持は不可能となり、ドルは暴落する。貨幣の歴史が見せる本質的一致。危機において、信用は必ず収縮するのに対して、物質の(使用)価値は常に変わらない(ゆえに信用のバロメーターとして相対的に物質の価値が上がったように見える)。

 ラウル・クタールが亡くなった。『勝手にしやがれ』、『突然炎のごとく』のカメラワークは鮮烈という他ない。『突然炎のごとく』は、学生時代にボストンの小さな映画館で初めて観た。主演の3人が歩きながら戯れ、カトリーヌが突然駆け出すシーンがあった。スクリーンに映し出された "Catch me!"という字幕の文字が、今も脳裏に焼き付いている。

櫻井伸也展"Colors"

福岡から茅場町に移転した、HEIS CONTEMPORARYで櫻井伸也展"Colors"を観る。 

http://www.heis-g.com/info.html

5月に観たGALERIE PARISでの個展から、色彩、マチエール共に密度が増している(同時に抑制性も働いていた)。

同様の手法を使いながらも、常に新しいアイデア、構想が画面上で試されており、続けて観ているとその変化を身体的に感じられて面白い。

下記はGALERIE PARISでの個展について書いた記事。

https://note.mu/art_critique/n/na9169b76acf4

同場所にスペースを持っていたBASE GALLERYは、事務所だけを残してアートディーリングに特化したビジネスに業態を変えると知った。金融街の近くで、自負心を持って、そのような商いをしてゆくという姿勢が興味深い。

 埼玉近美で竹岡雄二を観て後、世田谷美術館でマヌエル・アルバレス・ブラボを観た。竹岡も面白いところがあるが、ブラボは特に良かったのでカタログも買った。長期に渡る研究を反映し、内容も充実している。ブラボの写真は全てが比喩になっており、凄まじい詩的深度をたたえている。考え抜かれた構図でありながら、決定的瞬間を逃さない。場所と時間が持つ一回性と、その背後にある世界を、ここまで強く刻印できる写真家を他に知らない。

「お気持ちの表明」について

 天皇にまつわる様々な伝統を継承しつつも、人間宣言を経た後の象徴天皇であるからには、土葬などの前近代的な風習を辞め、重い殯の儀なども可能な限り簡素化し、生前退位も認めて欲しいと。天皇憲法皇室典範によって縛られ、国政に関する権能を一切持たないが故に、自ら制度の外に出ることは叶わないので、「お気持ちの表明」という形で(改憲もしくは法の改正が可能な)主権者たる国民の理解を間接的に求めるという、極めてアクロバティックな事態であったと思う。生前退位をすれば、崩御後の身体は、厳密には天皇の生身の身体ではなく、葬儀に関するしきたりも、簡素化へと傾きやすい。天皇の役割を、伝統的な儀式を執り行う、伝統の継承者であり、かつ、国民の統合の象徴的役割を担う名誉職的な存在へと、可能な限り縮減し、真の意味での人間的自由の領域を幾らかでも確保することで、天皇の人間化を進めつつ、想像の共同体たる、国民国家の新しい在り方を提言しようとされたように読める。

 先日まで開催していた時のかたち展にて、同じ出品者である80歳の大先輩と知り合い、母校の中央大学出身の画家が意外に多いということを教わった。美術研究会というものがあって、小茂田守介など、当時活躍していた画家が幾人も出ているとのこと。小茂田と美術評論家洲之内徹との関係についてや、松本竣介駿河台のニコライ堂を描いていた時代、同じ空気を吸って交流していた様子などについて、楽しくお話を伺った。