建築がうまれるとき 利部志穂

 近代美術館で、「建築がうまれるとき ペーター・メルクリと青木淳」展。当たり前だが、いつもと客層が異なり、会場は建築に興味がありそうな人たちで一杯であった。大体において、私には美術の学生よりも建築の学生のほうが真面目であるという印象がある。これには理由があって、建築には大量の情報を処理することで成立している部分が大きいために、必然的に勉強熱心にならざるをえないということがある。だから、建築をやっている人たちは、美術家に比べて他人の作品に詳しいし、互いにマニアックな会話が成立しやすいのである。このことは、今回の展示にも関係がある。ペーター・メルクリと青木淳は、両者共に、絵画・彫刻的な造形性を持った建築家であるという括りで企画されているのだが、実は、両者は全く資質の異なる建築家であることが展示を見るとよくわかる。青木の造形法は、与えられた枠組みの中であらゆる可能性をしらみつぶしに検討し、選択してゆくというやりかたであり、極めて情報処理的である。対してメルクリは、一見稚拙とも見えるドローイングを展開する中で、直覚的に空間を掴み出してくるやりかたである。この違いは、両者のスタディ法の違いにもよく現れている。青木は、土地の特性や施主の意向を汲み取りながら、三次元の模型でバリエーションを展開してゆくが、メルクリは二次元のドローイングが主である。またメルクリは、師匠であるハンス・ヨゼフソンの彫刻を自身の建築の重要な核として位置づけており、彫刻を置くことで開ける空間性を元に、プランを展開するというようなことも行っている。こうした点、メルクリは極めて抽象的であり、作られる建築も実際優れたものである。しかし、展覧会の会場では、青木の様々なバリエーションを生み出す過程での解説文と模型を熱心に読み込む人は多かったが、メルクリのドローイングを同様に見ている人は少なかった。青木のような情報処理的な建築の作り方のほうが、模倣しやすいのは確かである。しかし、メルクリのするような一見道なき道に見える独自の方法を編み出さなければ、真正な建築家になれないということもまた確かなのである。追従することでしか、自身の仕事に確信を持てない人間の弱さと、その裏に隠れている花の山を実感する展覧会であった。

 なびす画廊で利部志穂展。建築解体現場に落ちているような様々な廃材や小道具を任意に組み合わせ、組み立てられたそれらユニットを互いに関連付けながら展示空間に配置している。廃材同士の内的なシンタックスと外側から一望できる展示空間のバランスとの対立が作品の基本的な構造である。しかし、このような構造がはじめから想定されて、作品が形成されているのではないことは、過去に行われた「家を持ち替える」展の記録を見ればよくわかる。そこでは、世界の中で事物に出会うときに「主体」が強いられるその都度の判断が本能的に組み立てられているのである。感覚を開くための絶えざる訓練によって見出された特殊なオブジェクトと、それを空間上に配置する反省的判断とが交錯する。利部氏の作品は、表象批判を内に孕んだ稀有な彫刻である。