画廊巡り

 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVEで坂川弘太/村山伸彦展。坂川の作品は、コンピュータによって制御され、機械仕掛けによって回転する両側の機械をストッキングに似た伸縮性のある素材が結んでいるという形式。片側の機械だけが回転し、ひも状の素材が捩れることで、張力が生じ、たわんでいたひもが次第に引っ張られる。そして、ある程度まで張力が生じたところで今度は逆側の機械が回転をはじめ、素材が再びたわんだ状態へと戻される仕掛けとなっている。作品に美学的な側面は皆無であり、構造を生み出すための機構だけが即物的に組み立てられている。物質に力学的な干渉が与えられ、物質が変容してゆくさまを観測することで、事後的に空間が見出されることが目指されている。理屈だけを整理してみると、作品が説明的にすぎるという危険もあるのだが、坂川の作品を観ていて面白いのは、観る側が、動いている機械が生じさせることを予測しつつ、目の前で実際に起こる現象の微細な意外性に対する驚きを感じるときである。そのことを作家本人と話したところ、自身では「空間を骨折させる」と表現していたが、空間を機械的に生じさせるだけでなく、それを更に変換してゆくことにまで意識が届いていることが察せられた。

 村山の絵画は、小さな網目状のグリッドで出来た支持体の裏側に様々な色彩の油絵具を乗せ、それを裏漉しするようにして表面に押し出すという手法が使われている。画面を近くで見ると、それぞれに長さの違う絵具がところてんのように突き出ている。このような方法は、手技による筆触を回避し、且つ色彩の効果を十分に引き出すことに主眼が置かれており、そのことにはある程度成功しているが、そのような手法を駆使した結果、作品がどこへ繋がってゆくのかという部分が今ひとつ見えづらいように思われた*1


 展覧会を見た後、四谷のPAULでパンを切ってもらい、コーヒーショップでコーヒーを買い、公園にて食す。PAULのパンは市販のものと違い、小麦の含有量が高い本格的なものなので、生地が確りとしている。相当な噛み応えがあり美味である。群生する曼珠沙華の花を見ていると、二羽のジャコウアゲハが花を掠めて舞って行った。


 銀座に移動し、文藝春秋画廊で八樹会洋画展というのを偶然見つけて入った。デッサンの中に面白い作品もあったが、油絵を見ると達者ではあるが、システマティックに制作されたものが多かった。画面のところどころに、あたりのような鋭い線が引かれているが、筆が走りすぎている証拠である。洋画家の悪い癖だ。

 ギンザ・グラフィック・ギャラリーで平野敬子「デザインの起点と終点と起点」。現在、デザイナーはミニマルであり、同時に機能的であることという至上命題の中に追いやられているように思われる。それは、あらゆる産業や社会的生産物が、複雑化する大量の情報の結節点として存在し始めているからであり、そこでは近代的なデザイナーという職能の存在意義それ自体が問われている。デザイナーの仕事の本質は、以前にも増して情報を整理するという部分に集約されているのであり、それが済んでしまえば後は、どのレベルのエンターテイメントへと製品を着地させるかという作業でしかないからである。展示されていた中では、「婦人画報」の表紙が一番面白かった。


 資生堂ギャラリーでキムスージャ展「鏡の女:太陽と月」。インドの海岸で、海と太陽と月を撮影した映像作品である。ギャラリーの壁4面に、それぞれ違う映像が投影されている。あるものは荒れた海の波だけを俯瞰で撮影し、あるものは水平線に月が重ねて投影される。または夜の海の波打ち際に光る月光と打ち寄せる波とが溶け合って見えるものなど。映像にはスローが掛けられており、明確には判らないほどゆるやかに情景が変化してゆく。瞑想のためのビデオのようであった。

 街を歩いていると、偶然に細川流盆石の展覧会を見つけ、興味を惹かれたので入ってみた。大抵は、中国的な奇岩の要素を持っている石を、川などにある巨石から一部切り出してきて盆の上に配置し、白砂で海などの景色を描いている。形式自体は、大陸から渡来した池にシマという形や、良経の『作庭記』にある約束事、竜安寺の石庭などと変わらないのであろうが、盆の上にリアルに景色を描きこんでしまう点が変わっている。そもそも庭においては、石を置くことによって生じる抽象化された空間こそが重要であったはずだが、石の周囲に風景のイラストレーションを描いてしまうことによって、石が殺されてしまっている。イラストレーションが描かれることの帰結から、選ばれる石も全てが「それらしいもの」になってしまうことも問題であると思うが、家元によって芸が制度化されてしまうと、自己批判をする契機も失われてしまうのだろう。

 GALERIE SOLで東城信之介展。鉄の一枚板に意図的に錆を生じさせる作品。錆びさせる部分と、錆びさせない部分とをコントロールすることで、形態を作り出している。


 松屋の地下でたなかの柿の葉すしを買う。ネタのなかには鮭や秋刀魚などもあるが、伝統的な鯖が一番旨い。柿の葉すしは、元々保存食として利用されていた。すしに巻く柿の葉に含まれるタンニンが防腐剤の役割を果たしているのである。保存食といえば、高校の時の古文の時間に、テキストの中に干し飯という食べ物が出てきて興味を引かれたことがあるが、いまだに一度も食べたことがない。


 京橋方面へ向かい、途中、ギャラリー現で勝又豊子展、フタバ画廊で岩野仁美/辻由佳里展、ギャラリー小柳で古井智+中村哲也展を観る。ギャラリーの奥に、次回の展示のために準備中の堂本右美の作品が見える。ギャラリー山口で小林陸一郎展。

 南天子画廊で石川順恵展。激しいストロークの中に明確な形態が配置されるという、これまでアクリルで行われていた手法が油彩によって継承されている。アクリルから油彩に変えると、油彩特有の色彩の鈍さや素材の抵抗感が目立ってくるが、そのような素材の働きによって作品の形式がドラスティックに変化したという形跡はいまだ見られない。高い自由度を獲得していたアクリルの作品に比べて、描きづらさのようなものを感じるのだが、素材を変えたことにより、生理的な面で作家に働きかけている部分がそこはかとなく感じられた。抵抗が存在することによって生じる喜びのようなもの。

 PUNCTUMで川久保ジョイ「明晰夢」。離人症的な現実感のない現実が写真によって表現されているのだが、作品を観てゆくと、そこにはいくつかの決まりきったクリシェが見えてくる。全体的に白っぽい色彩を用い、画面に余白を大きく取り、または物の一部分だけを撮影すること。これでは、現実感のない現実というテーマを、いくつかの決まり文句で説明していることにしかならない。撮影という行為を通して、自己が解体されてしまうような契機がそこに見られない。


 ギャラリーを出て銀座に戻り、教文館白洲正子著『西行』を買う。その後ライオンに入り、ビールとローストビーフを注文。隣の席にオハイオ出身で仕事で日本に来ているというアメリカ人がおり話しかけられる。話していると互いに経済学部出身だということがわかったので、自分はマルクスを勉強したのだと言うと、アメリカ人はアダム・スミスと1929年に端を発する恐慌が専門だったと言う。リーマン・ブラザーズの破綻について話し、当時のような恐慌に繋がるのではないかと聞いてみると、それはないという答え。そのアメリカ人は、共和党支持の愛国者なのである。



世の中を夢と見る見るはかなくも
猶おどろかぬ我がこころかな       西行

*1: 目的に対して手段(手法)が明確であるので、作品の自律性が強くなっている。言説としてのエッジが鋭いがゆえに、絵画的リファレンスへの通路が見分け難い。絵画とオブジェとの中間的な作品。