『切りとれ、あの祈る手を』佐々木中著(河出書房新社)


 文体は苦手だが、内容は面白かった。この本については、多くの識者が書評を書いているが、誰も言及していないかに見える部分で気になる箇所がある。それは、決定的なテキストは、一旦失われ(忘却され)た後に、再発見されるということである。この本で紹介される事例は、11世紀の末に、ピサの図書館で『ローマ法大全(Corpus Iuris Civilis)』全50巻が発見され、そのことがきっかけとなって中世解釈者革命が起こり、教会法のみではなく、世俗法の書き換えもが大規模に進められたということだ。そして、これまでとは異なる(概念の)枠組みを蔵した書物が発見されたとき、書物に対する徹底的な注釈が行われ、そのことがテキストの二重性を生み出し、「近代」という問題構成を準備した。発見された書物が、これまでとは異なる枠組みを持っているということは、その書物の中には、なぜその書物が忘れられたのかという原因さえもが書き込まれているということである。そこから、注釈によるテキストの書き換えとは、書物の精神分析にも等しいという結論が導き出されるだろう(分析されるのは、文体であり、レトリックであり、政治性であり、書くという行為それ自身であろう)。だから、原テキストが書かれたという事実それ自体は、決定的なことではない。それは失われ、発見されるというプロセスを経なければ、テキストたりえない。なぜならば、注釈するに足るテキストとは、既存の思考の枠組みを変える可能性を有するものであるからだ(最初から最後まで、理解可能性が持続しているのなら、忘却されることも発見されることもない)。読むということは、そういうことだろう。佐々木氏が、本を読むことは不可能だというのは、つまるところそのことを言っているように思える。

 またこの本は、単純にアカデミズム批判としても読める。大学とは本を読まずに済ませるための場所であり、美大とは、絵を描かずに済ますための場所であるということだ(読む度に、描かれる度に、革命が起きていたらアカデミズムは成立しない)。


切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話