『赤めだか』立川談春著

 立川談春著『赤めだか』を読んだ。私の中で青春記と言えば、和田誠の『銀座界隈ドキドキの日々』や明本歌子の『コズミック・ファミリー アクエリアスの夢を生きる女』などが重要だが、談春の本もこれらに匹敵するほどに面白い。引き込まれた。良い青春記は、濃密な体験に加えて物事を細部に渡って記憶する力、周囲の人物に対する批評眼、更にそれらを表現するための独自の文体が獲得された時に生まれる。『赤めだか』は著者が立川談志に入門してから真打となるまでを、軽快なリズムと必要にして十分な描写(仕舞いまで語らず)によって一気に語り起こされている。随筆でありながら、優れた落語の要件をも満たしているのである。

 豊富に盛り込まれた談志のエピソードも面白さの重要な核となっている。談春にとって、カリスマである談志は矛盾を体現した巨大な壁として立ちはだかっている。読み手の立場として事態を外から眺めてみれば、なぜそのような「こと」になったのかと感じるものだが、当事者として事態に呑まれ、次々と予測不能な言いつけや叱責に晒され、奇天烈な同門の渦に巻き込まれてゆくうち著者自身の内に、落語というものがもつ揺らぎ、奥深さが意識されてくる。落語修行という深い闇の中で、それでも著者は、志ん朝的な洗練ではなく「落語は人間の業の肯定だ」と断じる談志がもつ毒、観客を掴んでは引きづり回す話芸の凄みの中に落語の本質を感じ修業に邁進してゆく。修行とは矛盾に耐えることであるという古典的なテーゼが静かに浮かび上がってくる。

 一方で、談志の合理的な側面も強調されている。ガリレオの時代から、異端者とは徹頭徹尾合理的である者と相場は決まっている。落語協会に属し、伝統的な慣習を守る一家一門が年功序列的な制度の中で、いつ前座を脱して二ツ目、真打へと昇進できるのかわからない状態で修行を強いられるのに対して、立川流では二ツ目昇進の基準はあらかじめ決められている。古典落語を五十席覚え、鳴り物が一通り打て、講談、修羅場が読めるようになり、唄と踊りが2,3できること。最終的な判断は家元によって下されるということは前提であるが、他の一門に比べれば明快である。下記のくだりからは談志が持つその合理的な判断力が余すところなく伝わってくる。

 翌日、談春(ボク)は談志(イエモト)と書斎で二人きりになった。突然談志(イエモト)が
「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」
 と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」

 立川談春の凄いところは、談志の言葉を、記憶から引き出した上で、極めて明晰な文体として整理し直していることだ。磨き上げられた古典落語を聴くようで、読んでいて非常に気持ちが良い。

「まあ、口調は悪くねェナ。よし小噺を教えてやる。えー、昔から、三ぼうと申しまして、泥棒、つんぼう、けちん坊、この三つの噺をしておりますと、お客様にお差し障りがなくてよいとされております。なるほどその通りで、いくら泥棒の悪口を云ったところで文句を云われる心配はございません、けちな方は寄席へ落語なぞ聴きにおいでになりません」
 淡々とした口調で、談志(イエモト)は、三ぼうの小噺をはじめた。けちの小噺をふたつ、泥棒は三つ。聞いて圧倒された。高座とは全く違って、声は一切張らない。ただ、ボソボソしゃべっているだけだ。普段の談志のようなギャグもないのに、笑いをこらえるのがつらくなるほど面白い。正直に云うと、漫談以外でこんなに面白い談志を見たことがなかった。ショックだった。プロってこんなに面白くできるのに、高座では小噺を演る談志なんて一度も見たことがない。一体この人には、いくつ芸の引き出しがあるのだろう。
十分ほどしゃべって、談志(イエモト)は云った。
「ま、こんなもんだ。今演ったものは覚えんでもいい。テープも録ってないしな。今度は、きちんと一席教えてやる。プロとはこういうものだということがわかればそれでいい。よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ。教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ。いいか、落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ。それが基本だ。ま、それをクリアする自信があるなら今でも盗んでかまわんが、自信あるか?」
 と云って談志(イエモト)はニヤッと笑って僕を見た。鳥肌が立った。
「それからな、坊やは俺の弟子なんだから、落語は俺のリズムとメロディで覚えろ」

 談志の落語の特徴は、古典を語る中で、過去の優れた噺家の語り口をいくつも比較検討した上で、即座に噺の要点を抽出し、談志の語りが過去の噺家に対するコメンタリーとなり、落語がレファレンスを織り込んだ連綿と連なる語りの流れとして構成され、更にその中に批判的な現代性を盛り込んでゆくというものだが、上記のくだりはその秘密をよく伝えてくれている。全ての落語家や画家は、自らのうちに固有の落語史、絵画史というものをもっている。これは、自分の創作にとって必要な落語の(絵画の)歴史ということであり、いわゆる教科書的な歴史とは何の関係もない。芸を盗むとは、先人の発想や技術というものを歴史化して自らの中に取り込むということである。盗むのに時間がかかるのは、自らの中に歴史的な座標軸と、取り入れたことを自分の文法の一部として生かすための感覚や技術ができていなければならないからだ。