リー・フリードランダー『桜狩』

 RAT HOLE GALLERYでリー・フリードランダー『桜狩』。日本の桜に魅せられたフリードランダーは、1977年を皮切りに、79年、81年、84年と繰り返し桜の季節を日本で過ごし、桜とそれに連なる風物を写真に収めている。例によってフリードランダーは、カメラを構えるときに、対象を明確な形で捉えうる超越的な視点を取らない。ここに見られるのは、枝や幹が複雑に絡み合い、視覚に絶えず侵入して止まない桜の花びらの数々と、撮影する自身の身体とが等価に置かれているという事態である。フリードランダーは第一のフェーズにおいて、被写体に等価物として囲まれた中で、自らの立ち位置が喪失され、結果として個別の視覚さえもが錯乱状態に置かれる様態を準備する。このままでは作品が成立するかどうかも危ういのだが、フリードランダーはここで第二のフェーズを登場させる。それが、対象同士を串刺しにする構図である。フリードランダーの写真においては、二つ以上の対象が互いの形が分からないほどに重ね合わされて撮影されることが多い。例えば、目前に二本の木があった場合、一本目の木の背後に二本目の木が隠れるように撮影され、複数の重なり合う枝が元来どちらの木に属するものなのかが、あえて判別できないようにされてしまう。視認性の観点から、普通の写真家なら避けるだろうこのような構図によって、フリードランダーは、ばらばらに解体されてしまいそうな個々の独立した視覚(対象)同士を強引に繋ぎ合わせるのである。「Kyoto,1981」と題された作品においては、池に浮かぶたった一枚の桜の花びらが、日に照らされて光る水面と、そこから今まさに口を出しつつある鯉、水面に映る歪んだ樹影と等しく印画紙の上で重ねあわされることで、視線からの排除という孤立から救われ、小さきものの存在が静かに告げられている。「Tokyo,1981」では、満開の桜によって、煙ったように影だけが見える背後の木の幹とそれによって引き立たされる前景の下草、更に桜で隠された幹の上を別の木の枝が、這うようにして重ね描かれる。そこでは、プッサンの絵のような前景・中景・後景と区分けされた複数の空間が、被写体同士を絡ませることによって、事後的に截然と立ち表れると言うだけでは十分ではない。フリードランダーは、カメラを通して対象を支配するのではなく、自らも対象と等価であることによって、見ると同時に対象からも触れられている。見ることと、見られること(触れられること)との絶えざる転換が、画中に見えないものの存在をも我々に触知させるのだ。

I first went to Japan in 1977 and found the whole country ablaze with blossom.
I went again in 1979,1981,and 84,always at cherry blossom time.
As far as I knew,Japan was always abloom. -L.F.