球体写真二元論:細江英公の世界展 東京都写真美術館

今年の年始に細江英公の写真を観に行った。異形なものや前近代的なモチーフを、過度にデザインされたフレームで捉えた細江の写真は以前から好きではなく、今回もそのことを確認しに行くだけになるかと思っていたが、展示室の一角に、ガウディの建築の外壁やタイルなどに張られているモザイクを撮影したシリーズがあり、その作品群は素晴らしかった。被写体がモザイクのような装飾物であることから、撮影者の恣意的な意図の入り込む余地が少なく、対象に向かって開かれた形で写真家の技量が注ぎ込まれたことが幸いしたのかもしれない。今日書店で、写真を特集した雑誌を読んでいたら、荒木経惟永井荷風の写真を評しているページに行き当たった。荒木は、荷風の写真を見て、故意に絵を作ろうとしていないところが良い、というような意味のことを言っていたが、それには同感だった。私が気になる写真も、写真から撮影者の存在を感じられないものが多い。タルボット、アジェ、フリードランダー*1、近年の中平卓馬など皆そうだ。写真の文法が真に機能しはじめるのは、撮影者の意図が消え失せ、写真が純粋なカメラアイに近似する地点においてだろう。意識の一歩手前で思考するという意味で、写真は無意識を媒介とした技術である。いかに近代的な複製技術として飼いならそうとも、写真によって世界は夢遊病的なイメージに溢れている。

*1:フリードランダーの写真には、自身の影を風景に映し込んで撮影されたシリーズや、自写像も多く存在するが、それでもフリードランダーの写真からは、「不在」のみが立ち現れて来る。http://www.masters-of-photography.com/F/friedlander/friedlander.html