身体の固有性

粉川哲夫の『ニューメディアの逆説』を読みなおしていたら、分子生物学者の柴谷篤弘著、『バイオテクノロジー批判』から興味深い一文が引かれていた。

「機械は設計図の指示するとおりの大きさにつくられ、たとえただ一個しかつくられなくても、それには対応する特殊な設計図が常に用意されている。これに対して、生物のばあいは、同一の遺伝情報をうけとっていても、あらわれてくる生物は、一定の大きさにしばられるわけでなく、とくに社会性昆虫のばあいは、二〇〇倍以上の重量の差があらわれることがあるという。また形もときによって色々に変わり、厳密にいうと、生物には二つと同じものはない。」「したがって、生物はたしかに機械と同等のものを、その内部に保有してはいるが、高度の自発性をそなえた生物個体そのものは、機械をこえた存在であり、機械に還元できない。」

発話の全体的なコンテクストを知らないが、先日「女性は産む機械」という失言が批判された政治家に欠けているのは、存在が持つ複数の位相に対する感受性だろう。分類学のようなツリー状の体系は、言語的な差異のシステムを走らせることには貢献するが、差異を発生させる場の記述には適さない。差異的なシステムを支持し、各々の語が持つエッジの確保に賭けるあり方には、常に一種の飛躍が附随し、それは使い方を誤れば、排除と選択の論理へと転化してしまう。粉川氏は、同じ本に収録されている別のエッセイの中で、次のように書いている。

フッサールは、その『デカルト省察』のなかで、「われ思う」の「われ」と「われあり」の「われ」とを、思念的な自我(超越論的自我)と身体的自我(相互主観的自我)とに読みわけ(つまりは「ゆえに」を単なる同一性としてではなく、動的・時間的な差異性=メディアとして読みとることによって)このテーゼが支持するかにみえる近代的二分法をのりこえるものを見出し、さらにはデカルトをメディアの現象学者としてとらえなおす方向をきりひらいたのである。

このようなメルロ=ポンティ的とも言える、主体が孕むキアスム(交叉配列)の存在は、最近見られる安易なモダニズムの復活に対して、一定の批判力を有するだろう。ここには、身体性を他者として、深さにおいて見る視点が存在する。差別は、固有の身体性に対する毀損から始まるのだ。

『ニューメディアの逆説』粉川哲夫(著)