教えること・学ぶこと

先日ある場所で、道理のわからない子供に対して、理屈で道理を教えることができるか、という話題になった。善悪を含めた価値判断には、ある判断に対して、比較することのできる別の判断基準を示すことが必要であり、且つその両者を俯瞰して見ることができなければならないので、何の基準も持ち得ない人物に、はじめから理屈を説くのは無理で、教える側はある判断基準を単に示すことしかできないのではないか、というのが私の回答だった。柄谷行人『探究』の中で、「教える-学ぶ」ということの非対称性について述べており、学ぶ者は教える者に対して、常に「他者」として立ち現れると言っている。

そこでは、何かのきっかけによって、学ぶ者が「理解した」ルールが、多くの他の学ぶ者達によって、一定の支持を得た場合、教える側のルールがひっくり返されることも、可能性としては存在するだろう。クーデターは、多くの市民が権力を裸の王様と喝破し、異なるルールに優位性を感じた瞬間に引き起こされる。こうした事態が頻繁に起らないのは、多くの場合、教える側には組織的な強制力と、理論的な積み上げがあり、学ぶ側には、自らが発見した新たなルールを展開するための方法が、欠如しているためであると思われる。

ルールの問題は、法を巡って、より現実的な事態に接近する。例えば、人が自分の属する国の法律に反する行為を行ない、それを、訴訟を行なう意志と能力のある者に発見された場合、法的な強制力が犯罪者に対して発動されるだろう。この時、犯罪者が、自らがなした行為が国の法律に反していたということを、知らなかったと主張した場合、何が起るのか。勿論、知らなかったからといって、犯罪者に相応の罰則が適用されることに変わりはない。しかし国は、市民が国が定める全ての法律について、予め精通した上で社会活動を行なうということを、建て前ではなく、前提とすることはできない。善悪の価値判断に関する基礎的な教育の責に関しては、家族や地域社会などに代表される、共同体に帰されることが暗黙の内に期待されており、特殊な社会を除いて、国民の大多数に憲法や法の条文を暗誦させることは視野に入ってはいない。

ここに、善悪の価値判断に関して、国家と共同体との間に奇妙なねじれが生じることになる。国家は教えることを半ば放棄しているにも関わらず、法的な強制力を発動することによって自らのルールを暗に示し、犯罪の責任だけは共同体に送り返される。学ぶ者は、二重に絡まりあった教える者の存在に驚き、怯えることとなる。カフカ『審判』や、カミュ『異邦人』はこのようなテーマを語った作品ではなかっただろうか。