冬の寒さ

この冬は、戦後最大の寒波が来ているらしい。温度のように日々少しづつ移り変わってゆくものは、なかなかその実感が掴みづらく、初冬に入った時分に体感温度で変異を感じてはいても、最初頭では納得しない。気温が毎年変わるものという認識がまず頭から抜けている。温度計で統計を取ったような、客観的なデータを見せられてはじめて寒さを実感したような気になるものだ。しかも、冬には夏の暑さが恋しく、夏の炎天下では冬の寒さが待ち遠しくなるもので、元々「私」を現時点で包んでいる気温というものは忘れられるように出来ているもののようだ。

その一方で、21年前の1985年が大寒波であったと言われると、皮膚感覚でその時の寒さを思い出す。確かに大雪が降って、校庭で雪合戦などをして遊んだ記憶があるし、半ズボンなどを穿いているとすぐに肌が赤くなったものだった。しかも、1984年以前ではそのような寒さは当たり前のことであったようなのだ。

そもそも意識が芽生え始めた子供の頃には、平均気温などという観念がまずないから、冬は寒波のような寒さが当たり前だと思っていた。産まれたばかりの生き物というのは、意外に環境への適応力が高いものなのだろう。良く言われる「これから産まれて来るもののために」というレトリックには嘘がある。環境の変化を嘆くのは、今生きている者たちがその変化に耐えられないが故だ*1。人間は概して大きな変化を嫌がる。例えそれが昔に比べどのようなものであったとしても、皆自分が産まれ育った環境が好きなのだ。新しく産まれて来る者にとって、環境の変化という苦痛は存在しない。人は誰も、未来の他者を代弁することは出来ない。理念が持つ危うさはこうしたところにも潜んでいるのではないか。

*1:時間を数億年規模で眺めた時、「地球に優しい」などという言葉の無意味さが露呈する