絵画の地について

古谷利裕氏がホームページの05/12/21(水)の記事中で、ここ数日間の一連の考察の参考文献のひとつとして、岡崎乾二郎氏が松浦寿夫展の図録のために書いた文章を紹介しているのだが、これが面白い。

制作過程を料理に例えた*1その文章は、手の動き(料理をする過程)と見る行為(料理を味わう過程)が分離されたものであることを示唆し、更にそのような知覚が孕む二重性を平面作品が持つ、「下地」と「表面に乗った絵具」という二つのレベルの差に置き換えて、平面作品が持つ特性を描き出そうとしている。

そこで岡崎氏が述べていることを要約するなら、キャンバスの表面に彩られた色彩はいわば偽であり、地こそが絵画空間を生起させる原動力であって、絵画の表面に構成されるものはこの本質的な地空間とでも呼びうるものを見るものに味わわせるために奉仕する変数に過ぎないと言えそうである。

このように、眼(主観/無時間的)と手(技術/時間的)の峻別が確保されるからこそ、空間に対する知覚が触発され、我々は目の前にあるキャンバスを絵画として認識することが出来るのだ。もし、そうでなければ我々は目の前に生起する出来事を、空間的厚みのない単なる感覚の連続として知覚するだけだろう。

絵の制作が一段落して、しばらくキャンバスを裏返しにし、数日たってから改めて絵を見ると、制作中とは異なる印象を持つことが良くあるが、これもこのような知覚が持つ二重性が働くことによって得られる感覚なのであり、ジャスパー・ジョ−ンズが蜜蝋で塗り込められた画面に歯形をつけた作品を、眼が見て歯がゆく感じるのも同様であろう。

このように、絵画の地という意識がまずもって用意されることこそが、平面が成立するための条件でもあるという論理は、マチエールや何を描くべきかという「問題」ばかりに関わっている者にとっては非常に教育的な働きをしそうである。

ただ、反語的に語られたこの文を、地こそが平面の全てであるというように、リテラルに捉える動きには依然注意しなけらばならないだろう。地は平面に盛り込まれる「アクション」の痕跡を通して知覚されるのであり、地から明確に分離され、異なる時間性を付与された図こそが、絵画空間を奥に遡るようにして引き出し得るのである。

*1: 岡崎氏はこの文で人が料理を食べる過程を以下のように記述している。「食事の時間はそれを準備する時間に比べて悲しいほどに短い。食事が日常生活に占める最も重要な行事であるのは確かであっても、それは摂取した食物を消化する行為ですらもない。それを受け持つのは胃腸であり、彼らはその地道な消化作業に、料理にかかった時間と同じか、それ以上の時間を費やす礼儀をわきまえている。けれど食事はといえば、いかにもそれが仰々しい作法を伴うとしても、ただ食物が口腔を通り過し胃袋に落下するするまでの一瞬の出来事に過ぎなかった」だが、このような見方は食べる過程を不当に貧しい位置にまで貶めてはいないか。人が真面目に食物を咀嚼するならば、それは大変な労働であり、食事を質的にも時間的にも豊かに変え得る行為である。食べることの比喩で語られた、作品を見る行為にしても、それが真面目に行われるなら、見る者は制作者が行なったであろう多くの過程を、眼でもって順に洩らさず体験するだろう。