グローバリゼーションについて

資生堂ワードフライデイ*1。対話者は新元良一池内恵。題はグローバリゼーションであったが、話は主に新元氏が池内氏にイスラム社会の特殊性について尋ねる形式で進められた。イスラム社会においては、神は絶対的な存在として書物(コーラン)を人間に下し、預言者が人間と神との媒介者となって明確な価値判断を所有する。そこには、人間と神とが個々に契約を結びあう形式が存在し、宗教とは人間社会において、その契約を履行するための監視機能を意味する。

監視する不可視の眼が内面化されているという意味で、ベンサムパノプティコンを連想した。ただ、イスラムと西欧世界との違いは、コーラン*2による絶対的な体系秩序が社会を通観しているために、他者をリスペクト(尊重する)するという視点が介入することを許さず、他の世界に比べて宗教的な世界観が堅固で、文化を表層でしか受け入れないことだ。アメリカ流の、文化によって自由主義というイデオロギーを配付するという戦略は、そこでは決定的な効力を持たないのだ。

また、絶対者としての神の存在は、起原への遡行を許さない。起原を探究しようとする科学的思考法は、根源的に受け入れられることはないだろうし、科学的知見もコーランが作り上げる体系を補足する傍系的な位置づけを与えられるに過ぎない。

起原への遡行を断念し、悟性的思考に徹せよとは、岡崎乾二郎*3の言である。こうした考えは、絶対者の存在の有無は留保するにしても、イスラム世界における思考と相似性を待たないであろうか。コーランの中ではジハードという考え方も体系的思考の中でプログラム化されたものであった。体系内での思考操作は時に戦略的に発展し、闘争的な機能を有する可能性がある。また、『歴史の終わり』*4や『文明の衝突*5のようなニ分法的な思考は、善と悪という対立軸を呼び込む契機を持っているという意味で退けられるべきものである。そのどちらへも吸収されることなく、数学的な理念のようなものが、共通の対話的な文法として機能する道はないのだろうか?生存の多様性を維持しつつも、共通の法となるべき交換軸が用意されること。芸術とは本来そのような力の運動を作動させる契機を持つものではないのだろうか?

『One author,One book-同時代文学の語り部たち』新元良一(著)

『現代アラブの社社会思想-終末論とイスラーム主義』池内恵(著)