ドッグヴィル

アメリカの閉ざされた貧しい村、「ドッグヴィル」に偶然一人の女(ニコール・キッドマン)が迷い込み、その女が引き金となって村が破滅するまでを追ったストーリー。舞台はスタジオの中空に架構され、家や道路が白線で示された一枚の床だけだ。9つに章立てされ、役者の演技に沿って、ナレーションが状況を説明し続けるというスタイルは、映画における「自由間接話法」の新しい可能性を開いている。家などを表す白線は勿論、ドアの開閉の音や、あえてぎこちない動きの役者のほか、強姦シーンでステラン・スカルスゲールドが見せる睾丸さえもが、形式化された一要素として画面に確かなリアリティーを持たせている。「自然な演技」などというイデオロギーを一切排除し、個々のアクションに明確な形態を与え、乱高下する感情の動きを漏らさず描写してみせるこの作品は、強烈な剥き出しのポエジーを見るものに突きつけずにはおかないだろう。

一床面の上で全てを物語ろうとするこの方法は、まさに暴力的な形式化であり、実験としては非常に面白く、またこれがラース・フォン・トリアー監督の魅力でもあるのだが、問題点も残した。建物による空間の分割がなされないせいで、キャメラの先にあるものが全て写り込んでしまい、画面が単調になってしまう。また、それを避けるためにクローズ・アップが多用され、その結果、形式の純粋性を損なうジレンマも発生する。一つの理念(透明性)に従って全てを統制しようとすれば、必ず破綻が起こり、すぐさまそれを修正する動きが続く。モダニズムに附随するこうしたアポリアを乗り越え得るような、手法上の一工夫が欲しかった。

他者を一度は受け入れながらも、その時々の政治状況に従って世論が紛糾し、やがては受け入れた対象を「悪」として弾圧する。このような映画のストーリーは、トリアーの持つアメリカ観を如実に反映している。更に、映画のラストでマフィアのボスの愛娘と知れた女が、「責任」という言葉のもとに、村人全員を粛清するシーンを「同時多発テロ」と重ねれば、トリアーのアメリカ批判の痛烈さが理解できるだろう。歓待(受け入れ)は常に無条件なものでなければならず、そこに虚言の構造が入り込んではならない。投機的で常に不安定な人間に比べ、地面に引かれた白線は、一見確かな地盤であるように見える。しかし、実はその線自体が誰かによって引かれたフィクション(舞台装置)にすぎないとしたら?その時、虚言として葬り去られるべき対象こそが国家にほかならない。

『ドッグヴィル プレミアム・エディション』ラース・フォン・トリアー(監督)

『ドッグヴィルの告白』ニコール・キッドマン(他)