中平卓馬展 原点復帰-横浜

 副題を「原点復帰」と題されたこの展覧会は、近年主にジャーナリズムにおいて「再発見」され続けている中平卓馬の仕事の全体を非常にコンパクトにまとめており、なかば神話化されていた氏の作品を時系列的に確認することができる。中でも最も注目すべきはカラーの新作だろう。60年代から70年代にかけて、「アレ・ブレ・ボケ」などの新奇な技法によってさえも挫折した対象の乗り越えが、今度は鮮明な色と望遠レンズによって新たに目指される。極度に近視眼的な厚みをもった映像のなか、ピントが被写体(ホームレス、鳥、草など)にせり出すように合わされ、軽い目眩と共に方向感覚を失った視覚中枢が、脳内において不意に中平の視線と共振を起こす。ここには、他者のまったく個人的な視覚経験を写真によって共有することの驚きがある。幾分平静さを取り戻し、改めて写真を眺めると、晴天で明るいはずの画面にはなぜか透明な暗さが覆っている。これは、憂いも感傷も忘れ去った写像機械が発する冷たい信号にも似た孤独なつぶやきだろうか。

 カラーと縦長の構図を生かすことで、画面の鮮烈さを際立たせていることは認めるが、それらは絞りきったファインダーと望遠レンズの使用をも含めて、氏の思惑とは 裏腹に、写真の象徴形式を強める結果にしかなっていない。これは絵画が平面性に還元された結果、画面が物体に近づいていったことと同等の事態である。特定の技術を突出させたことにより、写真言語が単一性を志向し、それが写真の無媒介的なコミュニケーション性を踏襲し、それは更に特定の趣味に安住する共同体を強化させることになる。老写真家の技術への執着と、若手写真家によるその絶えざる誤読は、これからも「新たなる」悲喜劇を連鎖させるだろう。変わって過去の写真の展示はどうか。写真制作の一回性へのこだわりを捨て、リプリントによる反復可能性を強調するのであれば、過去の古ぼけた資料(出自の記述)はいらない。真新しい過去の写真が無気味な反復強迫としてただそこにあるだけで良い。

 この展覧会の主旨は、メディウムに過剰な操作を加えた初期の詩的な表現から、中平自身の評論集『なぜ、植物図鑑か』による自己批判と、写真集『新たなる凝視』を経て、形態への意志を秘めた近作にまで至る過程を「モノそれ自体」への接近の試みと、その深化の写真史として叙述することにある。しかし対象をいくら「凝視」したところで、視覚の直接性(モノとの合一)などはありえない。執拗に対象に向けられた視線はゆく宛てを失い、ロマン主義的な自我に回帰するほかない。主体を否定し、しかし物自体への接近をも阻まれた中平は、その強烈な葛藤の中で、自己破壊的なイロニーとしての記憶喪失という戦略を選ばざるを得なかった。写真が象徴形式に規定されているのであれば、それを頭から否定する必要はない。形式に依存しつつもそこに複数の導線を導くことで、形式自体をずらしていく戦略こそが取られるべきだろう。真の写真の可能性はそのような場所にしか存在しない。

『原点復帰-横浜』中平卓馬(著)

『中平卓馬の写真論』中平卓馬(著)