家宝

94歳になった今も、年一本という驚異的なペースで新作を発表し続けるポルトガルの巨匠、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の新作映画。莫大な遺産を相続した一人の青年の前に二人の女が現れる。典型的な悪女、ヴァネッサと純真な女性、カミ−ラ。周囲の計算通り、青年が結婚したのはカミ−ラだった。そして、二人の間を引き裂こうとするヴァネッサであったが、徐々に顕在化するカミ−ラの魔性にしだいにたじろぐことになる。家宝と称される程の美しさを湛えるカミ−ラの中にひそむ「悪」が、豪華な 調度品とまるで親和作用を起こすかのように輝き出す過程こそが、この映画の最大の見所である。女の性というものを裏の裏まで暴ききって見せるオリヴェイラの透徹した視線の強度に畏敬の念を覚えずにはいられない。

パンフレットやポスターに見られるメロドラマ風のプロモーションはどういうつもりだろうか。原題に『不確定性原理』とあるように、この映画は『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)の大審問官の章で議論されるような善と悪に関する神学論争をフィルムのモンタージュの特性を利用して交差・配列することにより、幾何学的に考察したものであり、通俗とも感傷とも一切無縁の厳しさをもっている。プロモーションが特定の客層を狙った意図的な曲解であるとすれば、時代錯誤もはなはだしいとあきれるばかりだし、映画を理解する上でも有害である。

悪の生態は、過去のオリヴェイラ作品でも繰り返し描かれてきた。だが『家宝』がこれまでの作品と異なる点は、主人公カミ−ラの中に「悪」の内面性が欠如していることだ。カミ−ラという女の存在自体は、彼女が密かに信仰するジャンヌ・ダルクの彫像のように善でも悪でもない。しかしそんな不確定な存在も、蝕まれた環境の中で内包されていた「悪」をしだいに引き出されることになる。オリヴェイラはそのような宿命的な「悪」を決してリニアに語りはしない。「悪」はドウロ河を幾度も往復する度に弁証法的な展開を遂げ、不意に挿入される異質なショットにより絶対的な「悪」へと変貌する。一見不可解な行動や、時に爆発するブラックユーモアのなかで作品自体も神話的な完成度に達している。D・W・グリフィスの『国民の創世』にも匹敵する冷徹な観察力こそが、見る者を極寒の興奮の渦へと誘い込んでゆく。

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