絵画の見かた

『絵画の見かた』ケネス・クラーク(著)高階秀爾(訳)

ケネス・クラークは生前、ロンドンのナショナルギャラリーの館長を務めていたことがあった。美術館は氏の著書で扱われる作品のように、あるコンテクストを元に集められた質の高い絵画群が、整然と並べられており、壮観である。かようなコレクションを入場料無料で市民に提供するイギリスの国力に、驚いた覚えがある。

クラークの『絵画の見かた』はティッツィアーノの「キリストの埋葬」から始まり、レンブラントの「自画像」で終わる。元々英『サンデータイムズ』紙に連載されていた文章であるから、難しい話は殆どなく、絵画が感覚に与える快楽の論理を伝記的な博引傍証や、構図等に見られる制作者側の意図を平明に説くことで、本物の絵画を前にした時の優れた観客の所作を読者に垣間見せてくれるのである。

特にスーラの「アニエールの水浴」にピエロ・デッラ・フランチェスカが与えた霊感についてや、なぜレンブラントの自画像の前で、既存の美術史家が沈黙しなければならないかを説いた場面等は、大いに読者の眼を開いてくれるだろう。

引用は、クラークの専門であるレオナルドのデッサンを論じた部分から。

彼は、科学者になるよりもはるか以前から芸術家であった。事実、彼がさまざまな疑問を自らに課し、それに対する解答を手記の中に書きとどめるようになるのは、一四八三年ごろから、すなわち、ざっと三十歳を越えてからのことである。しかし、その最も早い時期のデッサンにおいて、彼の精神はすでに、その後の生涯を通じて彼の心を占めることになる問題のひとつに向けられている。それはまず最初に、膝の上に抱いた子供が猫と戯れている一見きわめて自然な素早い筆致で描かれた一連の愛らしいデッサンのなかに現れている。二人の人間と猫の三者は、それぞれちがった方向に引っ張られながら、お互いに結ばれ合ってひとつの形態を形づくり、その結果このグループ全体がまるで一個の彫刻作品のように一体のものとして、しかもその周囲を廻って見ることのできる塊として構想されているといえる。ここに、どちらかといえばかなり単純な形で、「聖アンナ」図の萌芽のひとつが認められるのである。(page190-191 高階秀爾 訳)

文中の、「その周囲を廻って見ることのできる塊として構想されている」という部分は、マイケル・フリードが美術作品を評価する際の基準のひとつと繋がる部分がある。フリードは過去の論文において、アンソニー・カロの彫刻を見た時に、一瞬でその周囲を廻ってみたくなるということが理解される、というように述べている。こうした発言と、クラークが美術史上の作品を見る上での基準点との一致は、かねてからフリードが作品を評価する際に、「質が疑うべくもないような、その芸術分野内での過去の作品との比較に耐えられうるか否かに関する確信が重要なのである」という所見を裏付けるものである。

フリードはモダニズムの絵画や彫刻に比べて、ミニマリズムを中心とするリテラリストの作品は、常に観者を前提とすることから演劇的であるとして批判の対象としてきた。「芸術と客体性」によれば、リテラリストは、既存の芸術を終わったものと見なしており、リテラリスト自らが作る作品においては、経験の持続への没頭と時間の終わりなさをその特徴としているという。

対するモダニズムの最良の作品は、シンタックスの組み立てが作品内における自律性を維持していることから、どの瞬間にあっても、作品それ自体が明示的であり、個々の作品経験が瞬時性において、連続する永遠の現在を分泌することが目指されている。その背後には、文の構造が持つ、切断性の有無が介在していると思われる。優れた芸術作品は、瞬間性を暗示させる全体性を有しつつも、構造を持つ以上、それを切断する契機が作品に組み込まれているのである。そうであるからこそ、観者には作品を読む主体性が与えられ、作品の前に立つ時間や、観者が持つ知識や経験の多寡によって、作品が異なる様相を見せもするのである。一方、演劇的な作品が発する意味は、形式的にも内容的にも単一であり、そこでは絵画や形態といった言葉を抽象した未分化な言葉の残骸が、観者の有無に関わらず常に叫ばれ続けているのだ*1

ケネス・クラークの本は、作品と対峙する時の観者の姿勢を正してくれる。作品のスペクタクル性に圧倒されるのではなく、もう一度、作品を読み得るように感覚を主体的に働かせよう。

http://docentes.uacj.mx/fgomez/museoglobal/photogallery/L/leonardo%20da%20vinci/leonardo%20da%20vinci%20virgen%20rcs.JPG*2

*1:レッシングは著書『ラオコオン』のなかで、造形芸術、特に彫刻において肉体的苦痛の表現に節度が必要な理由について論じている。私の知る限りにおいて、マイケル・フリードがレッシングの当該部分に触れたという形跡はないが、レッシングの論文が演劇性を批判する上での根拠のひとつになった可能性はあると思われる。

*2:URLはナショナルギャラリー所蔵の「聖アンナと聖母子」のカルトン(デッサン)。