臨床読書日記

『臨床読書日記』養老孟司(著)

今書名を見ると、どこかのブログのタイトルのようにも見えるが、90年代に破竹の勢いでジャーナリズムを賑わしていた当時の、養老孟司の書評集である。養老氏によると、タイトルの「臨床」とは、「個々の患者さん*1に教科書的な原理を適用してみる」という意味であり、その原理となる教科書が『唯脳論』をはじめとする代表作である。

書評で扱っている本は、アメリカのミステリや大岡昇平カール・ポパー中沢新一などだが、随所に養老氏お得意の、都市と自然、身体と脳という図式が登場してくる。次々と本が料理される様を見ていると、当時こうしたキーワードが何でも切れる包丁のようなものであったことが見えてくる。昔の書評を読む面白さはこのように、本だけでなく評者自身のスタンスを相対化し、客観的に見られる点にある。現在進行形の書評の場合、読みたい本探しに気持ちが集中し、なかなかこうはいかない。

例えば、今から考えると、養老氏の都市と自然的な構図は、宮崎駿の二項対立的思想への影響が明白だし、当時は身体性を外部と結び付けることで、不可知の知というシンボルへと祭り上げる見方が流行していたように思う。そのような中、養老氏は解剖医という本職上、人間の身体を唯物的に扱わざるを得ないという経験*2から、その不可知の知を特権的に語ることが出来る者としての特異な地位を言論界に占めていたのである。

しかし、扱うことが出来るのが死せる身体であるということは、養老氏の評論にも限界点として書き込まれていたようだ。養老氏と言えども、自己の生ける現在進行形の脳や身体について外部的な視点を持つ*3ことは不可能だからである。それは、書評中の「意識」*4を扱った部分や、「霊」*5を扱った部分に躓きとして表れている。それらは、最終的に「言語」や「関係としての数学」として「もの化」されてしまい、あとは死せる身体を扱う時と同様の「科学的」な手続きを積み重ねるほかない。読者は養老氏が、体系化可能なものとそうでないものとの間で揺れている様*6を書評を通して見ているような心持ちになる。

*1:ここでは言うまでもなく書評される本を指す

*2:本書の中に、解剖した脳を持ち上げた時の重みについての記述がある

*3:氏が批判する脳が脳を考える自己言及性にも繋がる

*4:『意識のなかの時間』エルンスト・ペッペル(著)

*5:『純粋な自然の贈与』中沢新一(著)

*6:本書中では勤務先の東大と自宅のある鎌倉を電車で本を読みながら往復するエピソードが隠喩として重なる