束芋展

今年3月の東京オペラシティーアートギャラリー(+エイヤ=リーサ・アハティラ)、7月からのKPOキリンプラザ大坂(+できやよい)、ハラミュージアムアークでの作品発表に続いて、ギャラリー小柳でも束芋の個展が行われている。(銀座のギャラリーでは映像とドローイング、六本木のビューイングルームではリトグラフの展示)世はまさに束芋ラッシュである。

今回の目玉である映像作品は出世作、「にっぽんの台所」のミニチュア版とでも言いうる「にっぽんのちっちゃな台所」。卓上に乗ってしまう程の大きさで(size:H52×W38×D58cm)、日本家屋の模型が繊細に組み立てられており、ゴキブリが這う畳敷きの7畳間の前方と左右に据えられた3つのスクリーンに、独特な郷愁を誘う色彩の小さなアニメーションが明滅している。スクリーンに近づいてゆくと細々と整理された台所の中で、人間の脳みそが煮えたぎった鍋に入っており、その横には野菜と一緒に首を切り落とされる小さなサラリーマンの姿が見え、障子にあけられた穴からは、ぎらついた眼が始終家の中を覗く。老婆は漬け物にされ、卵を割れば男が落下し、フライパンには無数の顔が無気味に笑っている。台所脇のテレビの中では政治家が拳を振り、虚しい叫び声をあげ、この世界にある全てのものが等価であることを示唆しているようだ。この作品では、「にっぽんの台所」という矮小で卑近な生活空間で起こる日々の営み自体を地獄絵図として描くことで、日本の社会状況を徹底的に諷刺する。結果として画面には、差別的な視線や、自虐的な暴力とエロティシズムが充溢している。絵双紙のような質感やアニメーションによるスピーディーなイメージの連鎖は見事だし、襖を引いて縦横無限に進展するかのような日本的空間感覚も鋭く捉えられている。また、このような日本の近代化の過程で意識化されることとなった哀しき土俗性は、横尾忠則などとの類縁性も感じさせる。だが、横尾と束芋との最大の違いは、横尾がそうした近代日本の負の条件を一旦肉体化した上で表現していたのに対し、束芋の場合は、そうした負の条件自体が一つの土俗趣味として用いられている点にある。そこでは日本の近代も、グローバルな多文化主義を体よくなぞることしか出来ない現代美術の一コマとして、乾いた手付きで料理されるのみだ。
そして、作品のオートマチックな円環はアートのコミュニケーション不全を反映してもいる。こうした束芋の存在は森村泰昌荒木経惟に代表される、日本の恥部を海外への「見世物」として商品化してきた90年代の日本の現代美術の最後尾にあって、その本格的な終焉を告げているように見える。

私達はこの時代の美術の自己言及的な性格に、もっと批判的になるべきではないだろうか。リアリズムが決してリアルである訳ではなく、言説を流通させることだけが美術と呼ばれる訳でもない。いくら反動的と言われようが、もう一度、内容を形式に溶かし込ませることから可能性を汲み取る努力がなされるべきだろう。差し当たり、束芋に対して中村正義の顔の絵を、その貴重なモデルとして想起しておきたいと思う。60年代の反復が、2度目ばかりか3度目の笑劇を引き起こさないためにも。(2003/8/23)

『創造は醜なり』中村正義(著)