米田知子展

資生堂ギャラリーで開かれている、ロンドン在住の写真家、米田知子の個展。近年、現代美術の文脈で語られることの多い日本の写真家の中でも米田は杉本博司などと共に、方法意識の強い作家の一人である。取り壊される寸前の家の、古びたり、ヒーターの熱でうっすらと焦げた壁紙を撮影したシリーズや、ル・コルビュジエトロツキーなど、20世紀の挫折した知識人の眼鏡を彼らにまつわるテクストに重ねて撮影されたシリーズなど、米田の代表作が並ぶ。中でも今回最も広いスペースを使って紹介されているのが、かつて戦争があった場所を取材して撮影された風景のシリーズだ。戦争当時は激しい戦闘が行われたであろう場所も、今ではその傷跡を隠すように美しい自然に覆われている。写真の脇には、例えば「池(地雷でできた池/メシヌリッジ・ベルギ−)」というようなキャプションが付いている。歴史と記憶の関係という困難なテーマに新しい方法論によって果敢に切り込んでいる。

事前に周到に計画され、撮影されているために、どの写真も破綻なくコントロールされすぎている嫌いがある。そこには一回性ゆえの緊張感が欠如しており、フィルムに予想外の光が定着する事も無い。これは写真が、言葉(キャプション)が発する意味を受け止めるための装置として機能しなければならない事と関係があるのだろう。ここから読み取れるのは、歴史さえもがアレゴリーの一要素として用いられ、結果として米田の写真が一つのイデオロギーの居場所を確保することに貢献しているということだ。これらの作品もポストモダン芸術特有の閉塞感から免れてはいない。このような地点からいかに脱却するかが、今後の課題の一つとなるだろう。

風景を見た後で文字情報によってそのイメージが崩壊し、そしてまた風景が飛び込んで来る。米田の作品によって経験されるのは、視覚と言語感覚とのめくるめく交代によって、知覚が宙吊りにされた状態である。イメージと言語を同時に使うことで、知覚に新たな次元が開かれるのだ。またこの展覧会によって私達は、イメージ自体の言語的な性質についても洞察を得られるはずだ。イメージの内部を文法的に解読する可能性は写真をより知的な方向へ近付ける。米田のような作家の登場は、ウェットな情念に汚染されたり、白痴的な光景を恥ずかし気もなく垂れ流している日本の写真界を切断するという意味でも歓迎されるべきだろう。