ANDY WARHOL,HIS WORKS,IDEA&PROCESS展

アンディ・ウォ−ホルの故郷、米国のピッツバーグにあるアンディ・ウォ−ホルミュージアムのコレクションで構成される回顧展が開かれている。(コーディネーター 河内タカ、アートディレクション グルーヴィジョンズ)ウォ−ホル作品のベースとなるポラロイド写真や、4枚の写真を糸で縫い合わせた「Sewn photograph」、キャンバスにシルクスクリーンと手描きが施された一点物の作品の他、村上隆が「スーパーフラット」というコンセプトを練り上げる過程で参照した「カムフラージュ」など、ウォ−ホル再発見の糸口になるような作品が選ばれている。パーティー会場などで撮影された、トルーマン・カポーティフィリップ・ジョンソンなど、多くの著名人のスナップショットは後に雑誌、「インタヴュ−」に繋がる、ウォ−ホルのジャーナリスティックなセンスや姿勢を伺う事ができて面白い。


ウォ−ホルの制作のアイディアやプロセスを見せるのであれば、写真やメモや収集品のように、常に身の回りにあった物を展覧会の主軸に据えた方が良かったのではないか。ウォ−ホル流の資本主義リアリズムの要諦は、決して一点のマスターピースの追求にあるのではなく、断片の集積にこそあるのだから。また、「ファクトリー」に集まった人々のバストショットを延々とフィルムに収めた「スクリーンテスト」と呼ばれるサイレントフィルムの上映は、それ自体貴重な機会だが、勝手にBGMを流した点が惜しまれる。生きている時間そのものに耐える事に享楽を見出し、編集された世界への反抗をストレートに示すこの美しい作品は、極東の「美術監督」達によって無惨にも破壊された。


今や、作品にポップアートが登場した当時の衝撃はなく、ウォ−ホルという固有名はウォ−ホルという一商品となって市場に流通する。このような状況の中で企画されたこの展覧会は、「ビジネスアーティストとしてキャリアを終えたい」と語ったウォ−ホルの死後における順当な使用法なのかもしれない。だが、そんなことは文字通り、市場にまかせてしまえば良いのだ。東ドイツ社会主義リアリズムの絵画から始め、西側へ亡命後、特異なウォ−ホルの洗礼を受けたゲルハルト・リヒタ−や、千円札裁判の頃の赤瀬川原平など、様々な比較対象を通して、新たに見えて来るものがあるはずだ。ウォ−ホルを「ウォ−ホル」から奪還すること。「貨幣」としてのウォ−ホルの歴史はそこから再び始まるだろう。

ぼくの哲学

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