エルミタージュ幻想

浮遊するキャメラは絶えず世界を写す。一切の中断や選り好みもなく、案内役の男に誘われるがままにエルミタージュ館内をうろつき回る。そこで体感したものは、ちょっとした仕掛けで崩れ去る主体の脆弱さだった。90分ワンカットという触れ込み通り、キャメラにカットする意志は存在しない。だから眼前で繰り広げられる、きらびやかなる宴も、なんらスペクタクルではありえないのだ。観客はまるでフェルメールの絵を凝視するように、細部を愛でる脱自的な眼差しを強要されるにまかせる他ない。その視線の果てしなさに、確かに幻想を垣間見るであろう。


見る前は、絵画的な構図がキャメラの動きと共に、静かに回転するような映像を思い描いていたが、案内役の男が登場するために、少し散漫な印象を受けた。案内役の饒舌と大袈裟な身ぶりが映画の形式自体を破る訳でもなく、いささか中途半端で、見ようによってはただの観光案内ビデオのように見えてしまう恐れがある。更に、特権的に人格が付与されたかのように扱われる人物が何人か登場するが、これも画面を饒舌で乱す。生々しい人間の姿ではなく、歴史的な人間、つまり完全なる死者を見せて欲しかった。


この映画で特筆すべきは、案内人の後ろをついて回るキャメラに、視る物の意識(ソク−ロフの声で表現される)が付与されていることだ。観客は常に案内人とキャメラの間で漂うように存在することを強制される。そして案内人の注意も事物の表層を漂うのだ。特に案内人が、戦争を嫌悪しながらも、何度も軍服の美しさに心奪われる様を見るにつけ、帝国時代から幾度となく戦争を繰り返して来たロシアをシニカルに見つめつつ、逃れられない運命を共有しようとするソク−ロフの姿勢を、客席に縛り付けられながら見せられた思いがした。