田中一光回顧展

突然の急逝が惜しまれる田中一光の大規模な回顧展が、東京都現代美術館で開催された。アートの枠組みが急速に再編される現在、グラフィックデザインも徐々に同時代美術の流れに接木されつつあるようだ。500点にものぼる展示作品を一望すると、初期の秀作、「産経観世能」のシリーズから既に、モダンデザインの思想をベースにした独自の様式が確立されている様が見て取れる。例えば、日本の伝統的な中間色に対しては黒を、明解な彩度の高い色に対しては白を置き、文字は写植書体を活用するというように、デザインの基本的なルールは厳格なまでに決定されている。田中の方法は、色、文字、形、素材など、モダンデザインの要素を徹底的に収集、分類し、その都度それぞれの美点が100%生かされるような形で、各要素が引き出されてくるという明晰な選択力に支えられている。99%の整理と1%の閃きという切りつめられたデザインのあり方が、作品のテーマの本質を逆に照らし出す。そして、印刷の細部へのこだわりが、図版だけでは決して分からないプリントの美しさを生み、様式を更に深化させる。

だが、田中スタイルの白眉と言える1997年作のポスター、「武満徹 響きの海へ、フランス」の雄渾で品格の高い達成を見て、ついに最終的な様式の完成を見たかと思っていると、程なく別のポスター群が眼に飛び込んで来て衝撃を受けた。モリサワの『人間と文字』のポスターシリーズだ。これは、「なぜ人類は文字を持つようになったのか」という自らの問いに答える形で、13年をかけて遺跡や絵画から収集した文字を、それぞれの文明ごとに作品化したものである。文字の発生という巨大なテーマを得た結果、長年に渡って磨き上げられた様式は見事に解体されている。写真や文字などデザインの各素材はその属性を剥ぎ取られ、再構成に次ぐ再構成により、作品は無名性のデザインの域にまで到達している。そこに主体の「署名」はない。文字という得体の知れない「モノ」がそのままその場所に息づいているかのようだ。元来田中は、デザインを構成する上で、ドイツ発のグリッドシステムを採用していない。最終的な決定は直観によってなされている。『人間と文字』はそうした直観による方法の不断の鍛練の結果生まれたものだろう。しかしそれは、デザインのいたずらな恣意性を意味しない。厳格な制約の中における極度の集中力こそが、真に生動する力となって根源的な新しさを生み出したのだ。

驚きの余波は最後まで続いていた。コマーシャルによらない作品を集めた「グラフィックアート」のコーナーに展示されている「Mountain#1」や「Wind#1」と題された自然のシリーズを見てもらいたい。細かい色のブロックで作られたグラデーションの地の上に、自然の形態をほのめかす形が強い明解な線で、さりげなく置かれている。これらの作品は亀倉雄策が晩年に制作したシリーズ、『LIFE』と同様に生命の発露が鮮やかに捉えられたデザイン史上の傑作である。平面の内的な論理を突き詰めた結果、一見して単純な線の内側に躍動する力が蠢いている。この、日本にあって欧米にないもの。モダンな様式化との壮絶な闘争の果てに、静かに湧き出る夏草のような熱狂は一体どこから現れるのだろう。田中であれば「間」や俳句の「発句」を例にして答えるだろうか。私はこれまで亀倉雄策のデザインだけに、ある不思議な感動を覚えて来たが、今、田中一光の回顧展を見終わって、その理由が少しだけ理解できる気がしている。

デザインと行く (白水Uブックス―エッセイの小径)

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