ダニエル・リベスキンド展

 巨大な空間内に、真っ白な建築が姿を現す。壁面や床には黒一色で記号が張り
巡らされている。そこに、ある時は虐殺されたユダヤ人の名前の、またある時は
シェーンベルグの未完のオペラの痕跡をたどって行くと、いつしか身体全体が、
抽象化され、音楽にまで高められた空間に満たされていることに気付く。身体は
そこで方向感覚を失い、空間全体に埋没してしまうような錯角を覚えるだろう。
ここにいながら、同時に別の地点に立っている。そんな希有な体験が開かれてい
る。


 バーチュアルな展示を見た後、現実の建築空間を見に行きたくなる。建築の内部
が、抽象的にしか伝わってこないためだ。この点、満たされない欲求にストレス
を感じてしまう。また、「ベルリン・ユダヤ博物館」などでは、悲劇の物語を単
純にシンボライズしたかのようなコンセプトや設計につまらなさを感じる。これ
に限らず、実際に建った作品を見ると、初期のドローイングが持っていた過激さ
は見当たらない。建築模型の仕上げの雑さも気に掛かった。


 記憶すべき名前や、魂が滞留する隙間(VOID)が建築自体にいくつもの傷として
刻まれている。20世紀の悲劇の歴史を、そしてその連鎖を、それを引き起こし
たシステムを超えうるような地球規模のスケールと強度で描き出してみせる力技
に驚きを禁じ得ない。リベスキンドの建築を見ると、建築とは本来バ−チュアル
なもので、概念から始まるのだという事を意識させられる。始まりは一本の線だっ
た。私達は今、悲劇を肯定に変える、消えそうになりながらも持続する原初の小
さな一本の線こそを聴き取らねばならない。