洗練はアートの死

フィンランド出身の実力派女性アーティスト、エイヤ=リーサ・アハティラ(1959-)の日本初個展(2000年第一回ヴィンセント賞受賞)。中世のトリプティクを思わせる、精密に設計された3つのスクリーンに、映画の制作手法(台本、カット割り、キャメラワーク、音楽)を援用した、精神病理学的な物語が投影される。アハティラは主に女性の様々な感情を、映像を通して描くことで精神の崩壊過程を丹念に追ってゆく。身体感覚、生理的な異変、自己イメージと社会的イメージ間の齟齬に対する怒り(『ウィンド』)や、幻聴のある女性が習慣を乱される事によって、徐々に知覚全体が危機に陥る過程(『ハウス』)を、共に微細な徴候を鍵として語るその手法は、並のドキュメンタリーを遥かに超えるリアリティーを作品にもたらしている。時間や空間のズレを巧みに利用した編集力も見事。

しかし、似た様な主題は、多くのフェミニストジェンダーの問題を扱っていた60年代から70年代にかけて、ハンナ・ウィルケやマーサ・ロスラー等、複数の女性アーティストらによってすでに作品化されている。物語が失効した後に、それでも新たな物語性を再構築しようとする作家の意欲には敬服するが、今回の作品を見ると技術的な洗練は感じても、問題の本質的深化には至っていない。それは、多用されるスローや早回しや突飛なアクション、セリフの中でコンセプトを自ら語る饒舌が、映画や広告やテレビの引用であることとは裏腹に、パロディーとしても成立しておらず、単に滑稽で安易な印象を与えてしまう事からも伺える。こうした傾向は見る側に作品を読み込むスキを与えず、作品自体が自己完結してしまう結果を招いている。

同じ空間を2枚の写真を使って別の角度から見せる事で、場所や環境と人間との間の関係を考察した『セノグラファーズマインド』が展示されてはいたものの、アハティラには他にも、裸の女性が犬のジェスチュアを真似ている所を撮影した写真作品や、写真とテクストと映像を組み合わせたマルチメディアインスタレーション等、多くの作品がある。この機会に、それらを含めた総合的判断が出来なかったのは残念だった。またアハティラの作品は、現時点では固有のアイディアを持たず、技術的な洗練を極める方向にあり、その先の可能性はなかなか見出せないが、欧米の現代美術のリミットと問題点が現在どのあたりにあるのかを検証するためには、うってつけの展覧会ではないだろうか。