中国の山水と花鳥−明清絵画の優品− 町田市立国際版画美術館

 個人コレクションに基づく、明、清時代の山水花鳥画を集めた展覧会である。宋元画を引き継ぐ明時代の作品では、陳淳の「倣米家山水図巻」が、横長の画面にたっぷりとした墨を含んだ筆触のコントロールに優れていた。ただ、面白い作品は明よりも清時代の物に多かった。

 八大山人の「山水図」は、小品ながら、余白を生かした簡潔な墨の線によって、風景を的確な略図とでも言いうる方法によって捉えている。ミケランジェロのペンによる人物のエスキースを想起した。石濤の「山水図」は、緩やかな運筆による自由度の高い線が、画面のフレームを歪ませる効果を持っているように思われた。袁江も特筆すべき画家だ。複雑さを極めた山水の構図、立体的に一本一本の木々が立ち上がるように見える、粘るような描写は、異なるレベルでの様々なる平面性の追求に傾きがちな日本画との大きな相違点である。描写の強度において拮抗する日本の若冲と中国の袁江とを比べてみれば、対象の捉え方における両者の違いが浮き彫りになるだろう。袁江の作品の近くに展示されていた、「袁派」とされる「山水図」も蛇行する雄大な構図を持つ山の描写から強い力が感じられた。

 花鳥画ではなく、動物画と言ったほうが良いだろうが、商喜の「猛虎図」は、さすがに大陸の画家だけあって、虎の姿を迫真的に捉えている。どちらが絵画として優れているかということは別として、商喜の作品と比べるなら、やはり芦雪の「虎図」などは中国から渡来した絵画、書物を参考に描かれたのではないかという感じが強い。会場には応挙の所蔵であったと推測される中国の書物も展示されていた。

 展覧会を見終わって思ったのは、中国の絵画(特に山水画)は、袁江の作品に顕著なように、形式化の量的実践が徹底しているということである。そこでは、山水を記述するためのあらゆる形式が実験され、豊かなバリエーションとして結実している。イメージの積層が、文字的言語のレベルへと転換している中国の山水の掛け軸は、その言語化された描写を、上から文字を読むようにして、観てゆくことができるのである(漢籍に浸りきっていた鉄斎が、描き終わった部分を巻き取りながら上から下へと順番に絵を完成させていったことを思い出す)。

 伝統的に絵画の様式を海外から輸入し洗練させてきた日本画に欠けているのは、このような偏執的とでも言いうる繰り返しの力だろう。現代の抽象画においても、スタイルの輸入と、その平面的な展開は、緊張感の欠如した画面を量産し、「日本の抽象画の圏内」という蔑称さえ与えられている。日本の抽象画における本質的な問題は、「イメージのボキャブラリー」の貧困さにあるのではなく、中国の山水画が達成したような量的実践が齎す強度の欠如であるように思われる。自らの絵画という理念に担保された、最良の意味でのパラノイアックな「量的実践」に耐えうる(賭けうる)心性が無ければ、「イメージのコンテクスト」の、または絵画の質的転換は起こり難いし、インターナショナルであろうと欲する方法主義でさえも、空虚なDIY芸術へと堕すであろう。