アンリ・ミショー

 昨日の記事の脚注2に追記を付した。これはそれへの再度の注釈。身体的なスティルが形式に対して遅れてやってくるということに関連して。

わたしがしていること、それは単に、一本の指だけでギターを弾く人間がするように、下手くそにデッサンしているだけなのだろうか?

線は、わたしと同じように、自分が何を求めているのかを知らずに求め、即座の発見、提供される解決法、最初の誘惑を拒絶する。「到着して」しまわないように気をつける。盲目的探求の線。
何ものに導くこともせず、美しくあるいは興味深く作ることをも意図せず、ためらうことなく自分自身を横切り、横にそれることなく、からまることなく、何にもからまることなく、事物や風景や形象を認めることもなく。
何ものにもぶつからぬ、夢遊病者のような線。
あちこちで曲がりはするけれども、からみ合ってはいない。
何ものも取り囲まず、決して取り囲まれることもない。

まだ自分の選択をしなかった、焦点合わせの準備のできていない線。
好みもなく、アクセントをつけることもなく、誘惑に完全に負けてしまうこともない。
・・・眠らずに過ごし、さまよう線。そうあり続けることに、他との間に距離をおくことに固執し、屈服せず、物質的なものに対して盲目的な、独身者の線。
支配的でもなく、同伴的でもなく、とりわけ従属的でもない線。

アンリ・ミショー『噴出するもの=湧出するもの』小海永二

 アンリ・ミショーの言葉には、「やってくる」や「噴出=湧出」など、形式的な媒介を通さずに身体的な作用が直接画面上に働きかけているかのような表現が見られるが、そのミショーにとっても形式は無縁ではない。ミショーにとっての形式とは、意図を持たず筆を置いてみること、描きなぐってみることだった。そこから、無数の顔が生まれ、のたうつ人間の姿が現れるのだが、いつもそれは遅れてやってくる。そして、更に面白いところは、ミショーの最良の作品が、噴出する描画の結果、まれに身体的なスティルを通り越して、どこにもたどり着かない表象を描き出すことである。しかもそれは、グリンバーグの言ったようなホームレス・リプレゼンテーション(帰する場所なき再現性)のようなものではなく、確かな身体的記憶を経つつも従属しないイメージなのである。デッサンの零度。ミショーの描き出すイメージは、遅れつつも、物凄い速度でやってくる。

黒色への到着。黒色は土台へと、起源へと導く。

深い感情の基盤。夜からは、説明のつかないものが、詳説し得ないものが、明白な原因に結びつけられないものが、不意の攻撃が、神秘的なものが、宗教的なものが、恐怖が・・・そして怪物たちが、母からではなく空虚から生まれるものが、やって来る。
アンリ・ミショー 同書