文芸誌とテレビ局

 良く晴れた日に散歩がてら図書館に寄って、新刊の文芸誌や論壇誌、詩の雑誌などを4、5冊見繕いテーブルの上に重ねて置き、各誌の目次を眺めつつ、気になった小説・評論・対談・コラムなどを、つまらないものは足早に斜め読みし、面白いものはゆっくりと注意して文字を追ってゆくことは楽しいものだ。東浩紀氏が「論座」5月号の鼎談の中で、文芸誌というシステムを支えているのは実は新聞の文芸時評欄であるという意味の発言をしている。似たような倒立した構造は文芸誌を発行している出版社自身のうちにもあって、会社の中でいかに文芸誌単体の事業収支がマイナスであっても、出版社の事業の中から「文芸」を排除してしまうと、伝統的な意味での出版社という形態の存在自体が怪しくなってしまう可能性があるのではないか*1。経営の側から見れば、ここで言う「文芸」は老舗メーカーが持つブランドや漫画のキャラクターと同様に、有価証券や土地などの実物資産に比べ、明確に価値を算出できない浮動する資産として把握されている*2。出版社は「文芸」という資産を持つことで、企業としての信用を確保し、広告の募集や商品の流通・販売において有利な立場に置かれることができる。このように、総事業の中の一部門に他事業を背後から価値づける「文芸」を持つような老舗出版社に対し、自らが資産ではなく、単純再生産における一商品の立場にあるオルタナティブな雑誌やミニコミ誌は、経済的に黒字を出すことが自らの価値を保障する一番の根拠となっている。

 テレビ局もまた、公共の電波を使った報道機関という存在のあり方が老舗の出版社に似て、「公」という磁場から発せられる目に見えぬ資産を内に抱えた民間企業という奇妙な状態を作りだしている。ソフトバンクをはじめ、ライブドア楽天などのIT企業が次々とテレビ局に対して買収を仕掛け、テレビ局側がそれを意地になって阻止しようとする姿を好意的に解釈するなら、テレビ局内部に、経済合理性のみに基づいた経営では中立な報道という表向きの理念が成立しなくなり、多額の広告費を難なく集めるテレビ局という機構自体が危機に陥るという認識があったのではないか*3。また、IT企業から見れば、インターネットという新しい販売網を持ちつつも、結局自社の作るコンテンツが、どうあがいても単純再生産の原理に基づく小売り販売の域から脱することが出来ないというジレンマに陥っているなかで、テレビ局が持つ中立報道という理念が目に見えぬ資産として、自らのコンテンツの価値を自動的に高めてくれるシステムは魅力的に見えたことだろう。ライブドアがフジテレビに買収を仕掛けた際、影で糸を引いていた村上ファンド村上世彰氏は、表向き、フジテレビの持つ土地の含み資産を計算すると、その株価はテレビ局が保有する資産価値に比べて割安に見えると主張していたが、村上氏やライブドア堀江貴文氏には、上記で述べたテレビ局が持つ実物資産を超える公的資産の存在が目に入っていたはずだ。実際、村上氏は大阪証券取引所株を大量に購入する傍ら、東京証券取引所が株式上場の可能性を示唆した際、東証の幹部に対して上場したら購入するとの意向を伝えていた。保有する資産に対して株価の割安な企業の株を買い集めて、企業(株式)価値の向上を経営陣に対して迫るのが村上ファンドの前期の主だった活動であったとすれば、後期の活動は公的な性格(資産)を持つ企業が経済合理性の塊である市場に上場した場合、徹底して企業が保有する名目上の資産と本来的な資産価値との間の鞘をアービトラージしてゆくことであったと纏めることができるだろう。

 民間のテレビ局は、原理的に公的でないものを公的であると僭称し、IT企業側は、本音と建前の共存が許される日本の企業社会風土を表向き丸ごと受け入れた(把握した)上で、その歪みが、市場という明確な価値算定に晒された場所において露呈した地点を突いたのである。社会主義的な遺制が残された日本において、急速に自由主義が台頭している現在、このような衝突は今後も繰り返されるだろう。更に、こうした下部構造の変動は、制度的に規定されがちであった日本の芸術をも変えつつある。少々長くなったので、これについては、またの機会に触れたいと思う。

*1: 大江健三郎氏は「群像」に掲載された大江健三郎賞の選評の中で、文芸誌とそこに掲載された小説が単行本になることで支えられている文学の状況について、その形態が今後失われてしまう可能性にも触れつつ自覚的に言及している。

*2: それを一から築こうとすれば、膨大な時間と金銭的な投資が必要となる。

*3: そもそも、民間企業からの広告費で経営が成り立っているテレビ局が、中立な報道を流すことが出来るという考え自体がおかしい。こうした意味で、上場企業であるテレビ局が中立報道を盾に、自らの企業価値を低減させることをも厭わず、なりふり構わず買収防衛をするという態度は論理的に見て破綻している。