『ウミヒコヤマヒコマイヒコ』油谷勝海監督

舞踏家の田中泯が、インドネシアの島々を巡りながら自身のダンスについて再考しようとする、ドキュメンタリー的なロード・ムービーである。旅の始まりで田中は、子供達の発作的なダンスに衝撃を受ける。それはまるで、生まれたばかりの稚魚が、自身が未だ世界に存在していることも知らず、無防備に生な生命の震えに身を任せて海中を狂ったように泳ぎ回っている光景を想起させた。子供達の姿を眺める田中の映像を見て私は、この老ダンサーの内に、踊りとは、型やコレオグラファーという捏造された主体性によって統御されたものではなく、世界との干渉の中で、半ば受動的に身体が導かれてゆくものであるとの確信が生み出されて来たように感じられた。田中は緑の決して絶えない土地を巡りながら、農民と共に田んぼで働き、時に果てしなく続く路上に転がり、また海流に身を任せて海岸に打ち付けられもしながら、インドネシアに流れるゲニウス・ロキ*1を身体全体で受け止めようとしているように見えた。はじめは、身を落として空間を漂っているようにしか見えなかったダンサーの身体が、次第に固有の動きを見せ始め、自身が「日本から持って来たもの」と言う慣習的な動きと闘いながら、新たな身体の動きを一から組み立ててゆく様は、画家が迷いの筆触の中から次第にフォルムを生み出してゆくのを見ているようで大変興味深かった。旅の最後、バリ島で開かれた「MIN TANAKA BUTOH DANCE in BALI」と題された舞台では、田中がインドネシアという土地で得たものと、これまでのダンス人生で身に付けたものとが一体となって、田中のダンスを初めて見る島民を、奇異と同時に懐かしさが入り交じった感興で包み込んでいるようであった。

*1:過日、東京芸術大学陳列館で開かれていた「<<写真>>見えるもの/見えないもの」展で、鈴木理策の撮影したサント・ヴィクトワール山の写真を見た時に感じたのも、ゲニウス・ロキということだった。モダニズム絵画は、セザンヌが描いた筆触を、絵画を制作する上での構造化された文法の一部として受け取り展開しようとしたが、セザンヌが「モチーフ」という言葉を発する時になくてはならなかったものが、実にこの石灰岩質の山と、それを見通すための透明な空気だった。私が絵画制作を行なう上で常に問題にしていることのひとつは、かつてセザンヌの絵画が持ちえたような指示対象無しに、いかにモチーフに代わる強力な「対象」を構成し、それを絵画制作の中に活かすかということである。セザンヌがモネを批判し、絵画史としてのプッサンを召喚したことの内には、筆触を絵画的文法としてリテラルに翻訳することを戒め、絵画空間に技法とは別の媒介を混入させることの必要性に対する気付きがあったのではないだろうか。