アルフレッド・ウォリス展

東京都庭園美術館で開かれている、アルフレッド・ウォリス展を観にいった。アルフレッド・ウォリス(1855-1942年)は、若い頃漁夫として船に乗り、30代前半から50代までイギリスの西南端に位置するコーンウォール地方のセント・アイヴスで船具商を商い、20歳年長の妻が無くなった70歳頃から絵を描き始めた画家である。画家として評価され始めたきっかけは、たまたまセント・アイヴスを訪れていた、ベン・ニコルソンとクリストファー・ウッドが、偶然ウォリスの家の前を通りかかった時に、家の中に無数に飾られていた異様な絵の数々を眼にしたことだった。ニコルソンはその場ですぐに、数枚の絵を買い取り、親交のあったテート・ギャラリーのキュレーターであるジム・イードに見せたところ、イードもまたそれらの絵をすぐに束で買い取った。その後、イードとウォリスとの手紙だけを通した付き合いがはじまり、ウォリスは度々、出来上がった絵を束でイード宛に送り、イードはその中から気に入ったものをそれぞれ数シリングという価格で買い受けてゆくことになる。それらが後に、イードケンブリッジ大学に寄贈したケトルズ・ヤードコレクションの一部となり、ウォリスのイギリスでの評価を決定づけ、今日我々がウォリスの作品をまとまった形で観ることができる基礎となっている。

ウォリスの作品は、ベン・ニコルソンが発見したということから、長らくイギリス国内でもセント・アイヴスの芸術サークルの一角という認識が強かったようであるし、私自身もこれまで、ベン・ニコルソンの展覧会カタログの片隅で見知っており、ニコルソンに影響を受けた周辺の画家という程度の関心しかなかった。しかし、今回の展覧会を観てその認識を大きく改めることになった。美術史という広い観点から眺めるなら、ウォリスこそが源泉であり、ニコルソンの方が周辺であるのだというように。実際に、ニコルソンが一時期描いていた海の風景は、ウォリスの影響によるものだったし、海景図のなかにある船の描き方を観ても、ウォリスのような内的な必然性は皆無であり、ニコルソンにとっての船は、破綻ない構成の一部分を埋める以上のものではない。そして、同じ会場で両者を見比べてみるなら、その優劣は歴然としていた。生粋のモダニストであるニコルソンの絵が、綺麗に浄化された上澄みであるとすれば、ウォリスの絵は凶暴なまでのオリジナリティーを発揮している。しかも、そのオリジナリティーとは、安易な自己表出といったレベルのものではなく、無私にまで至った時に初めて生じるような直接性を有している。

ウォリスの絵の多くは、商品のパッケージなどから引きちぎった厚紙や木切れに油絵具や船舶用塗料で描かれている。時にそれらはウォリスによってハサミなどで多角形状に切られ、パッケージの端の丸みの帯びた部分なども作品の形態の一部として描かれている。四角い画布に描くことを前提としていたことで、コーナー部分の処理をシェイプド・キャンバスという概念によって克服しなければならなかった、キュビズムの画家や抽象表現主義以後の作家たちの努力を、ウォリスはその無造作にも見える支持体の選び方によって容易に乗り越えているようにも見えるところが面白い。画題の多くは、自身が漁夫をしていたころの記憶をたよりに、船上から見ていた光景を描いたものが多い。船上の眼前に広がっていたであろう光景をそのまま描いたと思われる絵もあれば、様々な視覚による記憶を再構成して、鳥瞰的な構図で広い範囲を描いたと思われる作品もある。ことによると、丸みを帯びた支持体の使用は、眼が見たものをそのまま再現しようとした時に、好都合であったのかもしれない。鳥瞰的な構図の作品の中には、真上から描いたはずの建物や船や灯台が横倒しにされ、方向も前後左右自在に配置されたものも多い。海上という、方角や距離の認識が困難な場所では、このような方向感覚や位置関係、大小が解体された視覚が自然であるとも考えられる。

構成は整序されていないが、ぎりぎりまで切り詰められ、緩慢な部分は皆無である。そこには逃げが一切無く、素朴な絵柄に似合わないような厳しい構成感覚が感じられる。一隻の船の動きや、水平線の傾きといったデリケートな操作が逐一意味を変化させ、観るものに知覚の刷新を強いる。そのことを最も感じさせるのは、「荒海を行く」と題されたコーナーに展示されていた作品群である。ウォリスは妻と結婚した直後に、ニューファンドランドでとれたタラの塩漬けををヨーロッパに運ぶ、北大西洋航路を航海する船に乗っていたことがあるが、それは非常に危険な航路であったという。また、ウォリスは1938年にセント・アイヴスのポースミア・ビーチで起こったアルバ号の海難事故を観ており、その時の記憶を元にした絵も複数描いている。「ラブラドルの航海」では、いくつもの細かい筆触で積み上げられたように描かれた氷山の中を、灰色がかったオレンジ色の船が、船体を少し上に向けながら、画面の中央を操行している。木切れの余白を少しだけ残して広がり覆うように塗られた深緑の闇と、クリーム色に流れ込むようなブルーグレーが不穏な空気を伝えている。「波を越えていくモーター船」では、地塗りも施されていないクリーム色の厚紙の下三分のニを斜に横切る濃い灰色の海に、今にも飲み込まれそうな船が、大きく傾いた水平線と同じ角度で描かれている。転覆する寸前の緊張感が、絶妙な構図によって表現されている。「死の船」と題された作品では、黒い汽船はチョコレート色の横長の画面の中央を、ただ占めているだけであるが、ラフに引かれた白波を見せる海の波と、背後へとぶっきらぼうに流れる黒煙、船の両側から真上に垂直に引かれた灰色の細長い線が、難破のクライマックスを越え出て、すでに冥界を走っているような気配を場面に漲らせている。視点を引いて、船を点景のように描いた時には、静かな物語性を、船の近くに寄ってその微妙な表情を示す時には船の呼吸までもが聞こえてくるようであり、どの絵からも船が肉体の一部から切り取られて、そこに張り付けられたかのような存在性を放っている。

様々な形の支持体に応じて、緊張感のある構成がなされ、マッピングのようにして船や建物が配置されるのを見る時、ウォリスの画家としての技術のあり方が見えてくる。少ない色数ながらも、それぞれ精妙に階調を変化させた色彩や、丁寧に塗られた船体や帆、荒々しい筆遣いにも関わらず、不思議と所定の空間内に制御された波の表現からはゆっくりとした筆使いで、記憶の中のイメージを写し取る姿が眼に見えるようだ。それは、イコン画の制作や写経のような、自己と非自己とのあわいを往還しつつ事がなされる時に出現する事態であり、ウォリスはそれを形が形を呼ぶという展開の中で一つ一つ画面に描き込んでゆく。

画家は、技術を獲得した後には、いつかは手法やスタイルの彼岸に踏み込んで行かねばならない。ウォリスは短かった画家としての生活の中で、それまでの人生において熟し、保持してきた生命感を直裁に発現させることが出来た極めて幸福な絵描きだった。晩年、救貧院に送られ死んだウォリスのために、生涯画業を励まし続けたベン・ニコルソンと仲間達は、お金を出し合ってウォリスのための墓所を買った。バーナード・リーチ作の陶板によって作られ、「アルフレッド・ウォリス 芸術家にして船乗り」と書かれた美しい墓の写真からは、そのような厳しい幸福感が伝わってくる。