『ダーウィンの悪夢』フーベルト・ザウパー監督

淡水では、世界第二の大きさを誇るアフリカ、タンザニアヴィクトリア湖は、かつて「ダーウィンの箱庭」と呼ばれる程、多様な生物が共存する楽園であった。しかし、そこに外来種である肉食の巨大魚、ナイルパーチが放流され、湖の豊かな生態系は崩壊してしまう。湖の環境は悪化し、同時にナイルパーチの持つ豊富な魚肉に目をつけた業者が、ナイルパーチ専門の加工工場を建て、そこで製品化された魚は「白身魚」として、日本やEUに大量に輸出されている。

相対的に安価な製品を求める多国籍資本は、アフリカの湖畔に依存するようになり、タンザニアの農村に住んでいた人々も、現金収入を得られる仕事を求めて、ヴィクトリア湖周辺へと集まってくる。一旦納税の義務の見返りに、貨幣による生活を始めた「市民」たちは、もう昔の生活には戻れない。競争によって、一部の富める者と多くの貧しい者に分断された後も、人々はグローバリゼーションの鎖を断ち切れずに、街での厳しいサバイバル生活を余儀なくされている。

仕事にあぶれた女たちは、ナイルパーチを運ぶパイロットやビジネスマン、漁師相手の売春婦となり、街ではエイズが蔓延し、人々が次々と死んでゆく。貧困や病で親を失った子供達は、ストリートチルドレンとなり、ナイルパーチ加工後に捨てられた残飯を、仲間同士で争うように奪い合って生活している。子供達は、暴力や空腹から逃避するために、発砲スチロールなどのナイルパーチのための梱包材で作った粗悪なドラッグを吸って、怯えながら長い夜を過している。

ナイルパーチが齎した悪夢は、経済的なものにとどまらない。魚を運ぶために外国から飛んでくる飛行機には、大量の武器が積載されていることが噂されている。貧困に喘ぐ人々は、軍人になることによる生活の安定を求めて、戦争を待望しており、ヴィクトリア湖の生態系を破壊したことの見返りによる経済的な成功は、紛争の火種を着々と準備しつつある。

長きにわたる取材を経て、丁寧に作られたこのドキュメンタリー映画は、作品に説得力を持たせることに成功している。陰惨な内容とは裏腹な美しい映像や歌声は、一過性ではない強い記憶を観る者に刻印することだろう。このような、極めて政治的な内容が映画にされる意味は、そのような所にあると思うし、また、言論の自由を限りなく透明にするためにテレビメディアなどのコマーシャリズムによる検閲を極力避け、フィルムを売るという形での直接的なプロダクションが採用されたという側面もあるだろう。

グローバリズムが齎す歪みは、このような事例だけに留まらず、今や私たちの日常の生活全般に渡っているが、ヴィクトリア湖がひき起こした事態が特異であるのは、生態系の崩壊が、そのまま社会体系の撹乱に直結していることである。社会科学が科学と呼ばれ得る所以は、このような地点に見い出されなければならないし、革命的共産主義ではなく、社会民主主義的な改良主義的立場をあくまでも堅持するのであれば、生態系のみでなく、社会体系が正常に作動するような援助のあり方が模索されねばならないだろう。

『グローバル化と奈落の夢』西谷修(編)

『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』ティス・ゴールドシュミット(著)