ビル・ヴィオラ:はつゆめ 森美術館

ビル・ヴィオラの作品は、10年位前にボストンのギャラリーでまとめて見る機会があった。その時は、『グリーティング』のような例外はあったものの、どちらかといえば、ナム・ジュン・パイクなどの影響の元に、映像メディアの可能性を実験的に問うような性向が強かったと記憶している。複数枚に重ね合わされた、ガーゼのような透過性のスクリーンに、双方向から映像を映写するタイプの作品がその代表だろう。

しかし、今回比較的新しい作品を数多く見て、まず感じたことは、ヴィオラがメディアの実験から絵画性へと回帰しているということだ。映像技術の進歩に従って、映像が持つ解像度は格段に上がっており、鮮やかな色彩が強調されると同時に、個々の作品の構図も限定されたものへと収斂している。直接、古典絵画から題材を拾われた作品もあれば、人間の顔(肖像)だけに焦点をあてて、その喜怒哀楽が変化する様子を、肉眼ではリアルタイムで捉えられない程のスローで追い続けたものもある。初期の作品から一貫している二元論的なテーマ設定は、生と死に絞り込まれ、独特な感情表現が主軸となって物語を引張ってゆく。

レッシングが『ラオコオン』の中で、文学と造形芸術との差異について論じた際に、最もこだわったのも、この感情表現についてだった。文学に登場するラオコオンは、大蛇に捕らえられ、力の限りに泣叫ぶが、なぜ彫刻で表現されたラオコオンは優美に苦しみの表情を浮かべるだけなのか。それは、時間芸術である文学と空間芸術である絵画や彫刻との間に横たわる、メディアが持つ限界の確定を示唆するものであった。

しかし、映像という新たな時間芸術が生まれ、その対立は今や弁証法的に止揚された、というのが、技術の進歩に伴うヴィオラ芸術のリテラルな読みと言えるかもしれない。

だが、すでに20世紀においても、造形芸術の分野で、フランシス・ベイコンやジャコメッティーのように、人物像を通して動きのある感情表現を達成するという試みがなされているのであり、今後ヴィオラに課題があるとすれば、そのような造形芸術がもつ本質的な強度を、映像によってどのように乗り越えることができるのか、ということになるのではないだろうか。物語性が強化されているように見える、近作から連なる今後の系譜を見守りたい所以である。

『ラオコオン-絵画と文学との限界について』レッシング(著)