サイズ

絵を描くためのキャンバスのサイズを少しづつ大きくしている。8号では出来なかった空間的な操作が12号のキャンバスでは実現することができる。以前人物像を描いていた時には10号のキャンバスが使い易かったが、現在の作品には向いていないように思える。このようなことに気付いたのは、3・4号のような小さなサイズに習作を行なったことがきっかけだった。原理上は与えられた空間を無限に分割することが可能である。
平面を単純な情報の集積と捉えるなら、作品をどのようなサイズに拡大縮小してみようが、情報の質に変化は見られないだろう。しかし、作品のスケールをメディウムとして捉えた場合には、状況が異なる。
宝石のようなフェルメールの小品には、画家の技術に適したサイズの選択がなされていることが見てとれる。光の反映をリアルに伝えている、偶然に飛び散ったかのように見える絵具による表現は、大きなキャンバスに刷毛でストロークを行なったのでは得られないような質を達成しているようだ。
マイケル・フリードは「芸術と客体性」の中で、ミニマルアートを暗に人間の身体のスケールを模しているとして批判していたが、これはそもそも超越論的な身体性を乗り越えた制作の不可能性を問う、限界確定のための試みであったのかもしれない。
レム・コールハースの失敗は、「ビッグネス」を作品化したときに、表面上のスケールの大きさのみを問題にし、スケールに適合した作品の質という問題を捉え損ねたことだろう。作品が、人間の身体性を無視するようなスケール感を開示し、且つ細部に渡ってフェルメールが獲得しえたような精密さを得ていたとすれば、「都市はブラックボックスである」というテーゼはより輝いたものとなっただろう。
たとえ利用出来る眼や手が拡大しても、身体性を離れて異質なスケール感へと逃亡することは難しい。ユクスキュルの環境世界。ヒロ・ヤマガタの作品の中に、小さな人間が巨大な美術館の中に、巨大なゴッホの油絵をかけている場面を描いたものがあった。

『S,M,L,XL』Rem Koolhaas(著)

『生物から見た世界』ユクスキュル,クリサート(著)