日本画・身体

先日、歌舞伎町のバッティングセンターに行った時、一緒にいたアメリカ人の一人が打席に立つのを見て、面白いことに気付いた。フォームを見ていると、肩を丸め、身体が完全な一本の軸となり、最後まで力で振り切ろうとしている。お馴染みの大リーガーによる典型的なスタイルなのである。アメリカ人なのだから、フォームが大リーガーに似ているのは、当たり前ではあるのだが、日本人の場合だと、軸足を踏み出すと同時に身体全体を水平にスライドさせる感じが強くなるので、あのようにはなり得ないと思った。大リーグにおける、イチローと他の選手とのフォームの違いを見ると、分りやすいだろう。絵画を描く時の、身体の使い方にも同様のことが言えると思う。ジャクソン・ポロックタシスムでは、絵具の散らばりさえもが意志的にコントロールされているのに対して、中国の漢詩の影響を受けた、ブライス・マーデンのCold Mountainシリーズでは、同じオールオーバーの画面であっても水平に動いてゆく傾向がある。ピカソの陶器の絵付けと、日本のかけ流しなどを比較しても良い。日本画と洋画を比べると、更にはっきりするかもしれない。先日、テレビをつけたら、NHK日曜美術館を偶然やっていて、山本丘人が特集されていたのだが、その中で、ゲストが山本丘人の絵の特徴を「丘人ディスタンス」という言葉で表現していた。丘人の作品には、絵のどこに中心があるのかわからず、構図上の全ての場所が等価に描かれているという意味であるらしい。そう言われて、作品を見てみると、確かにそうで、どの作品も中心というものがなく見事に水平である。丘人の場合は日本画家の中でも特にそうした傾向が強いのかもしれない。同じ日本画の中では、東山魁夷の構図にもそうした要素がありそうだが、東山の場合はモチーフの一部分に象徴的な性格を強く持たせる傾向があって、戦後文学の理念のような匂いが少々気になっていた。東山に対する丘人という問題構成を仮構してみると、日本画というテーマを考える上で面白い問題が出て来るのではないかと思った。ここ数年流行している、日本画の擬古的なキッチュへの取り込みは、偽の問題に過ぎない。

『評伝 山本丘人』田中穣(著)