ドナルド・ジャッド

平面から立体へと移行していった、多くのミニマリストの中でも、ドナルド・ジャッドは特にペインタリーな特徴を持つ作家である。彩度の高い塗料や、光で色彩を拡散させる効果のあるプレクシグラスと、色彩を反射する効果のある鈍く光るアルミニウムとの混用は、印象派のような極めて理論的な色彩の利用を想起させる。また、反復を多用しつつも、寸法や構造上の切り替え位置を微妙に変化させてゆく作品の形態からは、右眼と左眼との間に生じる視差のような微細な差異の感覚を観者に与えている。ジャッドの作品は立体でありながらも、モノリシックな感じが全くしない。むしろ、一義的な認識を阻むという意味ではフラクタルな印象さえ感じられる。そうした意味で、作品が持つ効果としては、先日書いたロバート・ライマンにも通ずる面があるが、異なっているのは、金属という硬質な素材を使用することによって、メディウムによる抵抗感が極力失われていることだろう。ジャッドの作品においては、彫刻や立体が持つ、モノリシックな性質や、メディウムによる抵抗感が周到に回避されながらも、優れた絵画が持つペインタリーで明示的な差異性だけが直接感覚に迫って来る。ただ、このように、還元主義的な通俗的モダニズムのシナリオからは、作品上一線を画していたジャッドが、後にマーファにおいて、ユートピア的な環境を自ら構築していったことは、今だに不可解な謎として残っている。私設といえども、無為な空間の選択は、美術館に作品を設置することと紙一重ではあるが、今から考えるとジャッドのそれは、何もないからこそ無根拠にその場所を選ぶという、聖地の論理に等しい気がしている。場所に付着する伝説や物語というものは、常に事後的に捏造され得るのであり、生成のプロセスにおいて起りつつあるものは、いまだ制度でも何でもない。ジジェクであれば、それを「支配的な主人のシニフィアンから距離を保ち、象徴秩序における穴を可視化すること」とでも言うかもしれないが、より重要なのは、ジャッドの作品がそのような「開かれた経験」を、何度も動的に示顕させ続けていることなのである*1

*1:このような観点から見ると、生前ジャッドがバグパイプの音色を好んだ理由が想像し易くなる。