見えないもの

近所に通称「ゴミ屋敷」と呼ばれるタイプの家がある。生け垣などを有効に利用して、置ける限りの物が、敷地の中に積み上げられている。多くは、スーパーのビニール袋に入った、日常生活で出る「ゴミ」と思われるが、時折ちょっとしたスペースに、陶器のマグカップが几帳面に二つ並べて置いてあったりする。丁寧に、そのマグカップの中のスペースにも、縦長に丸められた「ゴミ」が入れてある。この家の主人は、時々家の外に出て来て、積み上げられた物体の数々を並べ変えている。部外者から見れば、まったくの無秩序にしか見えないが、主人のテキパキとした仕事ぶりを観察していると、なんらかの隠された法則に支配されているようにも感じられる。普通、日々「ゴミ」を出し続けていれば、仕舞いには物が敷地内に入り切らなくなりそうだが、敷地内に積まれている物体の量は、常に一定の量を保っており、スーパーのビニール袋にもあまり汚れなどが目立っていないことから、一定の期間を目安にして、それらの物体は新陳代謝を繰り返しているのかもしれない。

その家の前を通行する人々は、こうした光景を見慣れているためか、別段関心がないのか、特に気にする様子もない。たまに、子どもが通りかかると、一定の関心を示して、歓声を上げるが、付き添っている保護者も「そうだね」といった様子で、子どもが示す関心を自分の中の規範意識の中で同化処理してすぐに流してしまう。

日本は欧米に比べて法意識が乏しいが、規範意識が強く、欧米はその反対だと言われる。例えば、私の家の近所では、ちょっとゴミの出し方を間違えると、周囲が非常に五月蝿い。この寸法で行けば、例の「ゴミ屋敷」も相当な槍玉にあげられるはずだと思うのだが、地域住民が少しでもその家に対して抗議していることを寡聞にして聞かない。日本人には、自分の身の回りで処理出来るタイプの逸脱には厳しく対処するが、自らの思考範囲を超えた「出来事」は黙して受け入れるという性癖があるのではないか。世の中には、物理的に誰もが見えているはずなのに、何も見えていないことがある。周囲から孤絶している「見えない家」は、今日も静かに作業を続けている。