認識論的に見るなら、そもそも作品の実体を固定化されたものとして捉えることは不可能である。それは、作品が可能性の束として存在することを規定する、基礎的な条件である。経験を留保した上で、「このようなものであっただろう」という作品の一般化=資料化が、「このようにもあり得たはずだ」という可能性の様態を疎外する事態は、そのことに対する無理解が生じさせている。そのような視覚のイデオロギーを排して、作品経験の重層的な厚みを探究しようとする時、私は、デュシャンレディメイドを説明する時に使った、「レンブラントをアイロン台にすること」という表現を思い浮かべる。そこでは、作品を毀損することに対する人間の内なる欲望さえもが、マスターピースを経験することの快楽が持つ実体を代弁しうることが明晰に意識化されており、且つ、レンブラント絵画が持つ絵具の物質性とイメージとの判別不可能性に対する経験の内実を、アイロンでもって平らに均す(厚みを圧縮する)という暴力的な身振りによって、より直接的に表出することが試みられているのである。これは、作品をこのように経験すべしと、暗に見るものの視線を緊縛する傲慢に対する痛烈な批判である。
作品が生産物のひとつであるとすれば、複数の生産過程が存在し、それに従い複数の分岐点が生成される。そして、作品が完成されるという時点を明確化することが、原理的に不可能であるなら、固定化された作品像という神話は破壊される。カタログレゾネなどが築こうとする、作品群が構成する全ての作品という想像的な布置は、一点の埋もれた新作の発見により、容易に瓦解する。