岡崎乾二郎展 南天子画廊

岡崎乾二郎の作品を見るのには時間がかかる。絵画面を構成する絵具の塊が不定形な姿をしているために、ヒトが形態を認識する際の機能が上手く心像を結ぶことを阻むからだ。それは、ヒトが未知の言語を前にした時の反応に似ている。アラビア語の意味と構造を解しない私にとって、コーランが記す神の啓示は美しい連続した模様にしか見えないし、小児麻痺を患っていた叔父が生涯延々と書き綴っていた独自の秩序を持った記号群の意味に、私がいかようにしても近づく術を持たないことに等しい。

様々な色彩に彩られた不定形な絵具は、一定の数学的な秩序に従って配置されているようでもあり、視線は配置された絵具同士の位置関係や、形態の相似性について思考を働かせようとする。次第に絵具が置かれていない余白も、水面と陸地に分かたれた地球の地図のように、絵具の置かれた面に対して明確な主張を持っていることに気付かされる。

このようにして、岡崎氏の作品を見る者は、常に異なる水準を保持する複数のレイヤー間を次々に移動するようにして作品を経験するのだ。しかもそれは、水平だけの関係に留まらず縦の構図*1をも感じさせる。それはどのストロークも、分厚く塗られた絵具が、平坦に塗り広げられる前に、絵具が一定の塊としての質を保持する位置で止められていることから来る。厚ぼったく画布上に固着した絵具は、型紙を使用することで生じた生なエッジと相まって、出来事が発生するに際して瞬時性を想起させ、視線が余白の地を見つめている時でも視覚の前面に色彩が迫ってくる*2からである。

作品全体を認識するには異なるレイヤー間を移動することから、非常に時間を要するように感じられるのに対して、個々のディテールに於いては、上記のような瞬時性という早さの感覚も持っており、そのちぐはぐとした作品のあり方が、認識に対して複数性を有した固有の時間性を見る者に強いる要因となっているように思える。岡崎氏の作品は、絵画というメディアから離れてゆくというよりは、絵画のミクロな内部に沈潜して、今だ人々が気付き得なかった絵画における不定形な秩序の一片を、衆人の眼に見えるように晒しているのである。

『ぽぱーぺぽぴぱっぷ』谷川俊太郎(著)おかざきけんじろう(絵)

*1:小津安二郎の映画のように室内空間が奥に展開してゆくような、空間の厚みを指す。時折使用される透明なメディウムはそのような縦の空間の扱い方を暗示している。

*2:岡崎氏の作品においては、見る者はその周辺視野全体を使用して作品を経験することが求められている。