ターナー展 東京都美術館

 ターナーは、幼い頃より描写力に優れていた。その正確なデッサン力は、初期の教会内部を描いた鉛筆画に現れており、その運筆は、対象を描くための必要にして十分な運動量をしか持たない。そこには、まるで機械が描いたかのように、全く無駄な線が見られないばかりか、知覚が対象を認識するための必要最小限度の線分をしか認められない点において機械以上の描写力であることは明白である。ターナーの生涯は、こうした正確なデッサン力と、自身の脳裏に去来する崇高さに満ちた自然のヴィジョンとの間の闘争に明け暮れていたと言って良い。<<バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨(1798年)>>では、一方的に降り注ぐ太陽の光に対して、揺れ動く大気の流れがそれを遮断し、複数に分割された画面内において、唯一であるはずの太陽光を偏在する光の対話へと変形しようとしている。<<レグルス(1828年-37年加筆)>>では、反対に中央よりやや左正面から差す、唯一の光源が、画面を二つに切り裂き、建築や人間たちを溶かすかのようだ。<<湖に沈む太陽(1840-45年頃)>>では、画面は夕日が発する光と水蒸気にほぼ覆われ、一見何も見えないようだが、左下方に無造作に置かれた薄黄色の一筆が、靄の背後に整然と並べられた風景の痕跡を、その正確さを、一挙に立ち上げて見せるのである。しかし、こうした単純な画面内の闘争関係に収まらない作品もある。<<グリゾン州の雪崩(1810年)>>では、岩も樹木も雪崩さえもが、等しく絵画の表面へと迫り出し張り付くように描かれている。雪崩の背後に斜めに顕現する唐突な灰色の蒸気の塊は、更にその背後に見える光に満ちた世界に対して、根本的な態度変更を迫るかのようだ。自然そのもののエネルギーは、この世界のまさに地盤たる、巨大な岩でさえも一瞬で吹き飛ばす。ターナーは同様に、この絵によって、完成された風景画の構造そのものを、破壊してみせようとしたのではないか。絵を世界として観ていたがゆえに。画業の特異点として、触れておきたいと思う。

 「千古の業が万象を押しつぶす。そして後には滅び一人の苦しみも希望もすべてが埋もれ去る」(「グリゾン州の雪崩」のためにターナーが添えた自作の詩の一部)