見えるようにしたもの

 ドストエフスキーにとって大事なのは心理学だった。つまり彼は人間の内なる犯罪者を露にしてみせた。

ベンヤミン 「ブレヒトの『三文小説』」 浅井健二郎訳


 ドストエフスキーが露にした人間の心理は、彼の小説手法と密接な関わりを持っている。複数の登場人物がそれぞれに語る独白は、自らの脳裏に去来した、いかに些細な心の動きでさえも見逃さず、一字一句、言葉に置き換えてみせる。ドストエフスキーが構成した心理=独白という装置は、言わば心理を言葉へと自動的に翻訳する透明な薄膜として機能している。小説の中に据えられた、開かれたものとしてのそれは、今まで見えなかったものを見えるようにし、更に近代的な人間心理という副産物を、当の人間(読む主体)の内側へと人工的に築きあげた。

 同様に、インターネットという技術が見えるようにしたのは、これまであまり印刷されたり、人目に触れることのなかった人間の断片的思考や呟き、欲望の自然な発露、呻き、内なる歓喜の声といった心の動きである。

 かつて、ドストエフスキーが現れた後で、無数の近代小説風の小説が量産され、現在も量産され続けていることを嘆くように、ここにおいて、言論の質といったような、従来の印刷メディアを基準とした尺度を持ち込み、そこに空いた巨大な虚無に絶望してみたところで意味はない。重要なのは、ある技術を伴った装置の存在が、これまで見えなかったものを見えるようにしたという事実、それだけである。

 ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」に登場する守護天使は、歴史を見届け、小さき者たち(人間)の心の呟きに耳を傾け、彼らをじっと見守る。アウラが失われ、天使が人間となった後の世界では、人間同士が互いの天使となって互いを見守るという責務を課されている。それは、互いの責務に自覚的になることにおいてしか、共同体が成立しないことに似てはいないだろうか。