それが誰であるのかは判らないが、どこかで見たことがあるという気配だけを感じていることがある。そして相手から正体を告げられ、髪型の変化や眼鏡の有無によって、その相手が誰であるかを知ることができなかったのだと悟る。接写された写真を見るときにも、見知った対象であることを知りながら、同時に対象が何であるのか判然としないということがある。ジョセフ・コスースは対象の把握に際して、表象された像や文字と、同定可能な概念とを分離して観客に示したが、上記の例を鑑みれば、そもそも様々な形式へと表象を分類することができるというプレゼンテーションの方法自体が一つのフィクションであったと言うことができる。例えば、「柔らかい土をふんで」という文章を目にしたときに、その文章が持つ論理構造は、私が素足に感じられるはずだと思った、冷たく柔らかな感触の存在を保証しえない。文の構造が自発的にイメージや私的な感覚を開示することはなく、たとえ文章の目的がそれらを読み手に感じさせることであったとしても、それは読み手の経験に依存している。同様の問題は視覚の言語化に際しても起こる。コスースの作品が持つ陥穽*1が示しているように、私たちは正確な視覚像を言語的な手続きによって他者へと伝達することができない。言語は媒介手段に過ぎず、それによる伝達は、経験など言語の外側に存在する経路を介することで、はじめて他者へと受け取られる。視覚の伝達において、1+1は必ずしも2にはならない。作品は、対象が同定不可能な場においてこそ作られる。対象が同定可能であるなら、わざわざ作品を作る意味はない。それは具象であろうと抽象であろうと、また彫刻であろうと陶芸であろうと同じことである。抽象的に見える作品が抽象画であると同定されるなら、それは制作の失敗を意味する。

*1:コスースの方法は、対象を記号化し、言語内における表象間の翻訳可能性を探るものであるため、同じゲームの規則を共有する中では成立しても、大文字の視覚が問題となった途端に無効となる。コスースの作品を見るときにユーモアのようなものを感じてしまうのは、限定された方法があたかも普遍的であるかのようにプレゼンテーションされているからである。このことは、作品を展示するという行為に常に付きまとう。そこに展示されている作品が、自ら限定された領域内に自縛されていることを演劇的に示しているとき、観る者はそこにおかしみを感ずる。