モネ大回顧展 国立新美術館

印象派は、それまでの絵画を規定していた規範からの逸脱と、その修正の歴史であった。まずマネが既成の絵画的文法に違和を唱え、後進がそれに続いた。モネも、1868年の「ゴーディベール夫人」と題された全身像では、マネ的な方法で絵画の平板さを強調し、唐突な印象を与えるコンポジションを形作っている。マネをはじめとして、印象派に多く見られるこのコンポジションの唐突さは、ベネツィア派の構成を思わせて興味深い。しかし、印象派の場合はモチーフとなる対象がベネツィア派に比べて一義的であり、唐突に見える対象の構成は、そのことから要請されたご都合主義的な側面があったことも否定はできないだろう。印象派が日本の浮世絵から受けた影響が表面的なものであったために、浮世絵が持っていた構成の妙にまで意識が行き届かなかったという側面もあるかもしれない。

戸外で外光の中制作するという手法を手に入れたモネの筆は、次第に自由度を増してゆく。そこでモネに起こった最も重要なことは、眼によって対象が把握されながらも、画布の上を動く手が自律的な運動を獲得するという事態だろう。知覚と身体的な運動が切断されつつも、それがモネという描く主体によって再統合されるという奇妙な出来事が、晩年の絵画の特異な筆触を生み出しているのである。付言すれば、モネにあって、同じ会場に展示されていた現代美術の作品に無いのは、こうした主体が孕む二重性である。現代美術は、モネが孕んでいた主体の分裂の内の片方だけを手法として受け取り、展開したのであり、現代美術が持つ貧しさというものがあるとすれば、そのようなものだろう。

セザンヌは、モネが陥ったそのような状態を不徹底なものであると考え、「モネは眼に過ぎない。しかしなんという眼だろう!」と両義的にやわらかく批判し、自身の画業が向かうべき場所を「自然をプッサンのようにやり直す」と規定している。しかし、上記の理由から、眼と身体を切り離し、画家がその片方だけしか持たないとの批判は、モネには当てはまらない。セザンヌが真に批判すべき相手は、もっと後に控えていたのである*1

*1:全く同型とは言えないが、こうした意味で、グリーンバーグの還元主義をフリードが止揚するという現代美術(批評)の展開は、マネ-モネ-セザンヌという印象派の辿った足跡の中に縮小した形で纏められうる。