「杉本博司 時間の終わり」展 森美術館

杉本博司の写真はその仕掛けの巧妙さが災いしてか、頭で理解してしまうと途端に面白味が欠けてしまう。作品を構成している、観念と物質に明確な線引きを行なうその明晰さには共感出来る部分が多いものの、杉本がもう一つの掛金とする工芸的とも言い得る完成度が視覚を満足させることを執拗に拒んでいる。それは写真が絵と異なり、画面を構成する被写体のあり方が、人が感じる自然的な視覚に似通っているがために、社会的な情報の共役性を過度に示してしまうことに相応の理由があるのだろう。コンセプトと写真というメディアにここまで親和性をもたらした作家は、これまで存在しなかった訳で、「このくらいの写真なら他にも撮れる人はいる」という凡庸な批判は問題外であるとしても、写真という蓋然性の広い形式には確かにそのような凡庸な「感想」を引き付けてしまう隙が存在していることもまた否定は出来ない。
観念性が過度に露出しているために、言葉で説明さえしてしまえば容易な理解を招いてしまうという(作家として急速に国際的な評価を高めた遠因でもある)同時代的「条件」のようなものを払拭し、今後作品が視覚的独立性を獲得するためには、杉本が自らのコンセプトを過保護にしているとも解釈できる作品を包む物質性の強度にこそ重圧ともなりそうな程の期待がかかっているのである。

そのような中、やはり目を引いたのは未だ意味が過剰に充填されていない新作群だった。数学科の研究室に保存されていた古い数理模型を撮影したシリーズも、白い漆喰で壁に故意に複雑な段差を作り、日光をそこに導き入れることにより壁に出来る微妙な影の陰影や色調をカラーフィルムで観測するようにして撮影されたシリーズも、共に以前のように写真であることに対する後ろめたさのような意識は後退しており、むしろ積極的に写真であることの条件をあらゆる角度から思考しようとする、前向きな姿勢が垣間見えて希望の持てるものだった。

写真とは何事も秘匿しないこと。全てが写された通りであるという、神秘性の欠如こそが写真自身が内包している最大のコンセプトであるということを、長い紆余曲折の後に作家が初めて見い出したかのようにも思われた。このような写真の見方は、マルセル・プルーストが写真に魅了された理由に接近し得るものであり、それはまた巨匠であるウジェーヌ・アジェの写真を条件づけるものでもあったはずだ。一見視覚の共役性によって強く社会と結ばれているかのように見える、写真が保持する盲点やイメージの底のなさに出会うことは、写真自体に過剰な意味が担わされている現代に於いて稀有な経験となるであろう。

http://www.mori.art.museum/contents/sugimoto/

杉本博司「歴史の歴史」展 レビュー
http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20050919/1127131095